『迷子になった拳』を観て

初めまして。いっぱしのエロ紳士を目指して精進しております、Cyanと申します。
普段は日々思ったことや気になったことはTwitterに書き込んでいるのですが、長文の感想(映画とかAVとか)などはこちらのnoteにまとめた方が読みやすくなるかと思いまして、登録してみました。以後、お見知りおきを。
さて、今日は『迷子になった拳』というドキュメンタリー映画の感想を書いていきたいと思います。

未知の格闘技「ラウェイ」

この映画、ミャンマーの国技とも言える格闘技、ラウェイに挑戦する二人の日本人選手を追ったドキュメンタリー映画です。ラウェイと言われて、「ああ、あの過激な格闘技ね」とすぐ思い浮かべる方は、かなりの格闘マニアでしょう。それ以外のほとんどの方は、どんな格闘技なのかご存じ無いのではないでしょうか。人のことは言えません。オレ自身が今回の映画の事を知るまで、ラウェイという格闘技の存在すら知りませんでした。
ラウェイとは、いわゆる立ち技格闘技(打撃によって相手をノックダウンすることが目的になる)に分類されるものですが、他の立ち技格闘技と一線を画すのは、拳を保護するグローブを装着せず、手と足にバンテージのみを巻きガッチガチに固めているということ。さらに、パンチとキックだけではなく、肘打ち、頭突き、投げOK、故意でなければ金的にヒットしてもファールあつかいされない。試合途中で一度だけタイムが取れるなどなど、アメリカなどで流行っているいわゆるアルティメット(UFC)よりも、過激さの度合いで言えばこちらが上回っている部分が多々あります。こういうルールなので、当然怪我も多い。顔も切れるし腫れ上がるし血は出る。この映画に出ている選手達のほとんどは、試合を終えるとボコボコの顔になっています。なぜ、そうまでしてこの競技に挑むのか。この映画を見始めると、まずはその疑問が頭をよぎります。

二人の青年、光と影

なぜ、あんなに痛い目を見ながらこの競技に打ち込むのか。格闘技がやりたければ、別に他の競技だってあるじゃないか。それでもラウェイに魅入られていく、金子大輝選手、渡慶次(とけし)幸平選手という二人の青年を追うことが本作の本筋です。この二人を追う過程で、彼らを取り巻くラウェイ関係者、家族などの群像も浮かび上がってきます。
映画を見る楽しみを損ないたくないので、あまり詳細は書きませんが、金子選手と渡慶次選手の対比が、この作品の妙になっています。「何者でも無い自分を何者かに変えたい」「格闘技と興業のバランスが面白くて(ラウェイを)やっている」この競技に取り組み始めた二人のモチベーションはまったく違います。それぞれが進む道の中で、良いこともあれば嫌なこともある。勝ちもあれば負けもある。スタート地点はまったく違った二人が、ラウェイという競技に真摯に向き合う中で、わずか2~3年の内に変化していく様が非常に興味深いです。ラウェイの本場、ミャンマーで鍛えてラウェイならではの勝負勘を培い、実力を付けていく金子選手。日本での試合の中でラウェイの中の「道」を見いだし、まるで武士のような佇まいになっていく渡慶次選手。どちらが正しいとか、どちらが間違っているとかではなく、それぞれの選手の選択がありのままに映し出されていきます。

オジサンの生き様

一方、主人公(的立場の二人)以外にも、ラウェイに関わるさまざまな人々、多種多様なオジサンが登場します。中でもオレの中でグッと来たのは、金子選手のミャンマーでの師匠といえるウィン・ジン・ウーウィン会長、日本とミャンマーの架け橋を引き受け続けてきた高森拓也氏、日本で本格的にラウェイの団体を立ち上げようと取り組むプロモーターの中村祥之氏の三人だ。この三人に共通するのは「敬意」だと思う。選手に対して、ラウェイという競技に対して、ミャンマーの文化に対して、もの凄く敬意を払っている。だからこそ、そこで語られる言葉は重みを持ち、上滑りをしない。ウィン会長が試合中の金子選手に放った言葉は、ラウェイという競技の本質と、格闘技の本質を射貫いているように思えました。中村氏については、新日本プロレス→ゼロワンの頃から知っていたので、今はこんな形で格闘技に関わっているのか・・・と、感慨深いものがありました。
逆に、作中で「(ラウェイに)関わっているのはおかしな人ばかり」という言葉が放たれますが、そう言いたくなるのも分かるような怪しいオジサンも沢山出てきます。聖者ばかりではない、愚者ばかりではない、これこそがやはり、人間模様なのだと思わされます。

優しさと冷酷さと

本作を撮った今田哲史監督は、かつて「タートル今田」の名前でAVを撮っていました。オレはタートル今田作品のファンで、「タートル今田がAVを辞める」という一報には、かなりがっかりもしました。しかし、今田監督が元々ドキュメンタリー畑の監督であり、今までのAVやドキュメンタリー作品の監督デビュー作である『熊笹の遺言』を観た上で、新たな道に踏み出してもきっと良い作品を撮ってくれるだろう、という確信がありました。
今田監督の人柄を知る人は、口々に「優しい人」と言います。確かに。縁あって直接お話しする機会を得て、その優しさを感じた事は何度もありますし、本作を通してみても、誰かに対して優しいと言うより、人間という存在に対する愛情というものが感じられると思います。
一方で、一種の冷たさ、冷酷さも感じます。ドキュメンタリーを撮る以上、対象を余すことなく写し取り、そこからどういう部分を抜き出して編集するか、という判断が問われることになります。その点、今田監督は容赦がありません。「こんな部分を映し出されたら、たまらんな」と思わされることもしばしば。そもそも、試合に負ける姿をダイレクトに撮影されることも酷だというのに、試合の後でお母様に散々叱られる(完璧に正論なのでぐうの音も出ない)金子選手の姿は、出来ることなら他人には観て欲しくないだろうな・・・オレだったら絶対嫌だな・・・と思わされるし、「何もそんなところを写さなくても」とも思います。しかし、そのシーンがあるからこそ、金子選手自身、お母様の人間味が画面から溢れてくるわけで、ただ優しいだけの人には、ああいう場面は撮りきれないのではないかな、と思います。
ドキュメンタリー映画の監督は、撮影対象に対する愛と、撮影対象を俯瞰で眺める冷静さが必要とされる、という事を、この作品を通してヒシヒシと感じました。

映画である、という事

テレビにもドキュメンタリー番組はあります。話題になることも多い、フジテレビの『ザ・ノンフィクション』だとか、日本テレビの『NNNドキュメント』なんかがそうですね。では、これらのテレビ番組で、同じラウェイを題材にして2時間の番組が作れるかというと、多分無理じゃないかと思います。テレビで長期密着と言っても、せいぜいが数ヶ月、長くて1年ぐらいのものでしょう。着地点の見えないまま、数年レベルで密着するなど、効率が悪すぎてテレビの企画としては却下されるのがオチです。しかし、数年レベルで関われたからこそ、事件も起きるし、人間模様も変化する。これは「ドキュメンタリー映画」だからこそ、成し得た業なのだと思います。
今田監督がこのラウェイを撮ることになったのは一種の偶然だったのかもしれませんが、その偶然を活かし、膨大な素材を2時間という時間にまとめ上げ、スクリーンで観る価値を上乗せして見せた。これは本当に見事な「映画」だと思います。

少々気が早いですが、今田監督の次作にも期待大です。

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