心臓/木村夏樹の覚書/2023.05

先月に続いて今月も木村夏樹に関する大きな動きはなかった。やはりモバマスのサービス終了で公式展開はがっつり減った。ここ2年ばかし2ヶ月と間を空けずに何かしらの木村夏樹の公式の動きがあったのだから、動きがない最近は寂しいばかりだ。

その一方でアイマスシリーズ全体で見ると注目すべき動きがあった。
先月の覚書でも触れたが、エムマスが『サイスタ』のサービス終了と、今後はゲーム制作せずにIP活用のコンテンツとなる発表で、これからのエムマスがどうなるのかプロデューサー界隈に不安を呼んだ。それが今月になって配信されたてロードマップ報告会にて、今後のエムマスの方針としてストーリー性の拡充やイベント情報を発表することで展望が開けて不安を払拭。さらに、制作陣が自らの言葉で語ることで信頼をも獲得した。

そしてアニメ『U149』は、原作漫画の再編成によりアイドルたちの掘り下げや描写がより一層深まり回を増すことに評判を呼び、界隈の外にも届きそうだ。
うまいことやるなぁと思いながらも、主要登場アイドルとは縁遠いことで冷めた目をしたいて自分も、7話にはやられた。完全アニメオリジナルストーリーで、古賀小春の「ヒョウくん」との出会い、「お姫様」への憧れなど、古賀小春を語る上で欠かせない個性を、これまでの古賀小春の積み重ねの上に積み上げて、さらに丁寧に掘り下げるようで、一人の人格あるアイドルとして古賀小春の魅力を描き実在性が高まるようだった。

アイドルたちの今後をロードマップで具体的に示して制作陣が誠意を見せる。これまで一人のアイドルが積み重ねてきた個性をさらに広げて深めるア丁寧なアニオリ、アイマスの公式が、アイドルを大事にしていることを嬉しく思う。

それと同時にどうしても思わざるを得ない
木村夏樹は、多田李衣菜は、だりなつは、ロック・ザ・ビートはどうしてこうなれなかったのか

木村夏樹は、多田李衣菜は、だりなつは、ロック・ザ・ビートは、何度も何度も公式展開によって、その存在意義を毀損され続けてきた。

だから、どうしてもアイマス公式がアイドルを大事にしているなら、どうして同じことができなかったのかと、悔しさ、やるせなさ、憤り、やんぬるかな、言葉にできない思いが湧いてくる。

だからせめて今月の覚書は自分が木村夏樹、多田李衣菜、だりなつ、ロック・ザ・ビートに、思うところを書いておきたい。

ロックという価値観を共有したロック・ザ・ビートと、フォーピースのより高まるロックの価値観

そもそも木村夏樹と多田李衣菜はユニットを組む前から交流があり、デレマスのアイドルたちの人格の掘り下げもまだまだ浅い頃に、互いに「だりー」「なつきち」と独自のあだ名で呼び合う特別な関係だった。

その2人がイベント『アイドルセッション』をきっかけとしてユニットを組んだのがロック・ザ・ビートだ。
2人はもとよりロックという価値観を抱いていたが、ユニットを組むことに、お互いに良いところを見て、その価値観をより深めることになった。

なつきちにだって負けませんよー、おー!

[ロッキングセッション]多田李衣菜 - アイドルマスターシンデレラガールズwiki

だりーもやる気だね…ヘヘッ、こりゃ負けてられないな!

[ロッキングセッション]木村夏樹 - アイドルマスターシンデレラガールズwiki

李衣菜「ずっとなつきちと一緒のステージに立ちたいって思ってたんだ!」
夏樹「ヘヘッ、嬉しいこと言うじゃねぇか…叶ってるぜ、夢が!」

セリフ集/アイドルセッション - アイドルマスター シンデレラガールズ@wiki - atwiki(アットウィキ)

間違いなく、お互いの個性を認め合い高め合うことが2人にとってのロックであり、ロックという価値観を共有することが、ロック・ザ・ビートというユニットの意義であった。

その価値観が多田李衣菜の中でさらに高まったのが、多田李衣菜がリーダーを務めるフォー・ピースだ。ロックという価値観さえも持ち合わせていなかったライラ、冴島清美、涼宮星花を、多田李衣菜がそれぞれの個性を尊重しながらロックの意義を説いて高めた。

間違いなく、多田李衣菜の抱くロックの意義は、互いの個性を認め合い高め合うことを積み重ねてきたはずだった。それがデレアニで全てご破産になった。

ロック・ザ・ビートの存在意義の否定

アニメ「アイドルマスターシンデレラガールズ」においては、原典であるモバマスよりもアニメ制作スタッフの意向が反映されて、登場するアイドルたちの人格も改変された。その最たるものが多田李衣菜だ。
デレアニの多田李衣菜はモバマス以来の多田李衣菜とは全く違う、相手の個性を認めず、自分の考えを押し付ける狭量な人格にされている。
そして前川みくとアスタリスクというユニットを組んで、事あるごとに喧嘩するステレオタイプなキャラクターになってしまった。

鳥羽:高雄監督の中である種のキャラクター像が当然できあがっていて、この子とこの子が組み合わさればこういう化学反応が起きるとか、いくつか事案を出して、それを石原さんと揉んだんですね。(中略)前川みくと多田李衣菜の“*(Asterisk)”は水と油がおもしろく反応するだろうという。むしろ、そっちをピックアップしようと。

ニメ『アイマス シンデレラガールズ』1stシーズンを振り返る。フィルムに隠された伏線と緻密な設定とは【周年連載】 - 電撃オンライン

上記引用のように、アスタリスクというユニットのコンセプトは「水と油」個性を認め合うことはない。

その挙げ句にデレアニの多田李衣菜は「アスタリスクが私にとってのロック」「ぶつかり合うことがロック」と言ってのけた。

これはすなわち「アスタリスクのように、個性を認め合うことはない水と油のように反発して、ぶつかり合うことがロック」という意味になる。

「アスタリスクのように、個性を認め合うことはない水と油のように反発して、ぶつかり合うことがロック」だとするなら、それ以外はどうなるのか?

それは多田李衣菜の、それまでの認め合い高め合うロックの意義、ロック・ザ・ビートやフォー・ピースで積み重ねてきた歩みを完全に否定するもだった。それは多田李衣菜と価値観を同じくする木村夏樹の歩みをも否定することであり、ロック・ザ・ビートというユニットの意義の否定でもあった。

そして、この「ぶつかり合うことがロック」という言葉が、多田李衣菜にとって、そして木村夏樹とロック・ザ・ビートにとっての呪縛となる。

ロック・ザ・ビートの意義の再構成と、再度の否定

デレアニでそれまで積み重ねてきたロックの価値観、ユニットとしての歩みを否定されたことで、多田李衣菜は、木村夏樹は、ロック・ザ・ビートはその意義を再編成する必要にかられた。
その答えがロック・ザ・ビートとしてユニット曲を歌い、デレステでイベントを開催した『Jet to the Future』であった。

このイベントでは予告からして、ぶつかり合うことが強調された。
それまで互いに切磋琢磨して発破をかけることはあっても、激しい喧嘩をしたことがなかったロック・ザ・ビートの2人が初めてお互いの気持をぶつけ合うことになった。

これによってロック・ザ・ビートは、ただ互いに個性を認め合うばかりではない、お互いの気持ちをぶつかり合うユニットとなり、そのユニットの意義に、ぶつかり合うことをも包括することになった。アスタリスクというユニットがアスタリスクのようにぶつかり合うこと以外を否定した結果とは対象的だ。

そしてイベントではお互いの気持ちをぶつかり合うことで、お互いに成長して、多田李衣菜はついに一つの境地に至る。

それまでロックが好きとは言いながら、知識も浅く、ギターも弾けないことが多田李衣菜のコンプレックスであった。
そのコンプレックスをそのままにステージ上がる、ギターが弾けなくてもいい、ギターが弾けなくとも多田李衣菜はロックである。それはロックへの憧れ、ロックが好きだという初期衝動をまとった天衣無縫。自分自身の個性を自分自身で認める。多田李衣菜にしか到達し得ないオンリーワンのロックの価値観、ロックアイドルとして個性が確立した瞬間だった。

だがそのオンリーワンの個性も崩れる。『Unlock Starbeat』イベントで、ギターが弾けるようになってしまった。それも特になんの理由もなく当たり前に弾けるようになってしまった。これまでずっとギターが弾けないことをコンプレックスに抱えて、そのコンプレックスを個性に昇華した多田李衣菜の新境地は一体何だったのか。多田李衣菜は自分自身で、自分自身がこれまで積み重ねてきた歩みさえも無碍にしてしまった。

ロック・ザ・ビートの意義の再々構成と、疑問

多田李衣菜がギターが弾けるようになることは、多田李衣菜のロックという価値観をも揺らぐこと、そうなればロックという価値観を共有する木村夏樹もロック・ザ・ビートというユニットも意義も揺らぐ、またしてもユニットの意義を再編成する必要にかられた。

そしてその答えが、デレステとミリシタのコラボイベント『ハーモニクス』だ。再び木村夏樹と多田李衣菜はお互いに向き合うことになった。

コラボ先のミリシタのユニットD/Zealのジュリアと最上静香は互いにぶつかり合うことがユニットの意義だと語り、そのうえでD/Zealとロック・ザ・ビートは、互いにユニットの相方を交換してレッスンすることになる。

そして木村夏樹と多田李衣菜は、お互いをいつもとは違う視点で見ることで、お互いに向き合い、個性や魅力を再認識することになった。

そしてロック・ザ・ビートの認め合い高め合うユニットの意義を再認識したうえで、互いに経験を積んで成長したことから緊張感のある関係になるために、ライバルとなる。

だが疑問が湧いてくる。木村夏樹と多田李衣菜が互いに向き合って、ロック・ザ・ビートの次のステージががこれでいいのか、そもそものロック・ザ・ビートの意義である認め合い高め合う意義を再認識してお互いに成長した結果として、緊張感あるぶつかり合うライバルにならなければいけないという理屈がおかしい。

あまりにも「ぶつかり合うこと」という意義に引っ張られすぎている。それはデレアニ以来の「ぶつかり合うことがロック」という呪縛に囚われていることではないか。

繰り返すがデレアニの「ぶつかり合うことがロック」はそれまでの多田李衣菜の、木村夏樹のロック・ザ・ビートの積み重ねを否定するものである。

そしてお気づきだろう、あくまでもデレアニの「ぶつかり合うことがロック」とは、「アスタリスクのように相手の個性を認めず、水と油のようにぶつかり合うことがロック」という意味であり、個性を認め合うことは意味していない、なぜこのデレアニの「ぶつかり合うことがロック」という意味の原義に向き合わずに、ズレたまま来てしまったのか。

そしてお気づきだろう、ここまで流れを振り返ると、いつもやらかすのは多田李衣菜だ。多田李衣菜が好き勝手にやった結果として、それまでの積み重ねてきたロックの価値観やユニットの意義を否定することになり、その尻拭いのためにロック・ザ・ビートが木村夏樹が貴重な機会を割いて、意義を再編成したきたのだ。

なぜこうまで多田李衣菜のために木村夏樹がロック・ザ・ビートがおかしな、しゃらくせえ羽目にならねばならないのか、そこにまず向き合わなければいけないんじゃないか。

ロックという価値観に向き合ってこなかった

そもそも木村夏樹と多田李衣菜は、ロックという価値観を同じくするはずなのに、それぞれが抱くロックとはなにかを長らく明確にしてこなかった。

ロックとはただでさえ言葉にするのが難しい価値観であり、そして何よりのデレマスというコンテンツの、個々のプロデューサーの解釈が尊重される流儀に沿えば、公式は明示的に価値観を示すことなく、アイドルの言葉の端々や人間関係からプロデューサーがそれぞれ解釈することで多義的に重層的に広がっていくものがあるべき姿であろう。

だがしかしそうした繊細な積み重ねをデレアニで「アスタリスクが私にとってのロック」「ぶつかり合うことがロック」と明言してしまったことで、それまでの積み重ねを滅茶苦茶にされた挙げ句、その言葉がずっと引きずっているのが現状である。

『U149』の作者である廾之先生が、連載が始まった頃はデレアニの影響が強かったことから、意識して『U149』はデレアニとは別物だと描いていたと裏話を聞くとなおのことなぜロック・ザ・ビートは木村夏樹は多田李衣菜は、デレアニの影響を引きずり続けているのか、どうしてこうなってしまったのかと思わざるを得ない。

ここまであれこれ書いてみたものの、これはモバマス、デレステ、デレアニという明確に描かれたストーリー面のみでの話であり、アイドルマスターシンデレラガールズというコンテンツが、ゲームやアニメだけではないライブやらリアイベも包括して展開するコンテンツだということを踏まえると、ロック・ザ・ビートの意義を否定して木村夏樹を感動ポルノに貶めた7th大阪公演のように、その意義や価値を積み重ねてきたものを否定する公式展開はまだまだあるのだ。憤懣やるかたない気持ちはまだまだあるのだ。

デレマスの運営や制作に関わる人がロック・ザ・ビートについてまともに向き合い、言葉にして語ったのはいつだっただろうか、多田李衣菜の声を担う青木瑠璃子が、ここ数年の多田李衣菜の活動について語るとき、意識的に軽薄を演じているように見える、というのは穿ち過ぎだろうか。まともに誠実に向き合っていないのではないか。

エムマスがアイドルを演じている声優や、制作陣が表に立って誠実に言葉にしているのを見ると、どうして多田李衣菜は、木村夏樹は、ロック・ザ・ビートはこうなってしまったんだと思わざるを得ない。

『U149』がアイドル一人ひとりの人格を尊重して、アイドル一人ひとりが大事にしているものを大事にして、積み重ねてきたものを崩さぬように、その個性を掘り下げているのを見ると、どうして多田李衣菜は、木村夏樹は、ロック・ザ・ビートはこうなってしまったんだと思わざるを得ない。

どうして俺はこんなありさまの、多田李衣菜を、木村夏樹を、ロック・ザ・ビートをいまだに見限ることが出来ないのか。そんなことを思いながら自分でもどうにかしたくて、覚書を書いているだ。

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