宮沢賢治の1928(昭和3)年8月10日、肺湿潤診断と自宅療養の定説と異説

定説は

宮沢賢治は、1928(昭和3)年8月10日に、肺結核の診断を受けて、羅須地人協会から実家に移り、自宅療養をはじめました。

6月の東京、伊豆大島旅行、7月の水田巡回などの過労と、羅須地人協会での不規則な生活などで体力が落ちたために発症し、自宅療養を余儀なくされました。

以上が定説となっています。
本人の手紙と、医師の著書も根拠となっています。

教え子への手紙から

書簡243 1928(昭和3)年9月23日 沢里武治あて 封書
https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202108010000/

「八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らずつかれたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。」

医師の著書から

佐藤隆房 著 「宮沢賢治 素顔のわが友」より 1928(昭和3)年の肺結核発症の原因と症状
https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202108030000/

「昭和三年の八月、食事の不規則や、粗食や、また甚だしい過労などがたたって病気となり、たいした発熱があるというわけではなく、両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。」

異説 官憲からの逃避、自宅謹慎

いっぽう、結核による自宅療養は、表向きの理由であって、実は警察等の追及を避けるための自宅謹慎であったという説があります。

宮沢賢治研究家の鈴木守氏が、ブログと著書で主張していらっしゃいます。

ブログ「みちのくの山野草」
「昭和3年8月、賢治実家にて「蟄居・謹慎」」
https://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku/e/1db6b5ca2e15a1b13c68f73084d08ae7

「昭和3年8月10日に賢治が実家に帰ったのは体調が悪かったからということよりは、「陸軍特別大演習」を前にして行われた特高等の凄まじい「アカ狩り」から逃れることがその主な理由であり、賢治は重病であるということにして実家にて蟄居・謹慎していた。」

宮沢賢治に限らず、この時代の文化人の言動は、警察、憲兵、極右団体、などの圧力を考慮に入れないと真意がわからない、ということは、あると思います。

定説を学ぶことは大事です。しかし、それを鵜呑みにするのではなく、新説、異説にも注目していきたいと思います。

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