宮沢賢治 作 「藤根禁酒会へ贈る」

稲作の勉強に出かけ、禁酒会のビラを見る

1927(昭和2)年9月16日の作品です。
同年8月に大雨と水稲の倒伏に苦しめられた賢治は、翌年の稲作に向けた勉強をしていたようです。杉山式稲作法を視察するために岩崎という村に向かったようです。

そこで、岩崎の隣村の藤根禁酒会のビラを見たようです。

酒に逃げ貧しくなる農民

三年続く干ばつと、この年の大雨で農家経営は大きな打撃を受け、酒に逃げて、さらに厳しい状況に追い込まれた農家も多かったのでしょう。

鉄道開通の光と影

また、鉄道が農家の消費を促し、密造酒よりもアルコール度数の高い酒の購入に拍車をかけたことでしょう。西に向かう花巻電気鉄道、東に向かう岩手軽便鉄道には、賢治の父が資本家として協力しており、賢治にとって他人事ではありません。

「酒がなければできない仕事はやめろ」

「酒を呑まなければ人中でものを云へないやうな/そんな卑怯な人間などは/もう一ぴきも用はない」
「酒を呑まなければ相談がまとまらないやうな/そんな愚劣な相談ならば/もうはじめからしないがいゝ」

厳しい言葉です。
つい二十年ぐらい前まで、仕事の話を酒の席で決める習慣があった感じがしますが、最近は新型コロナウイルス感染症の問題もあり、すっかり、そんな習慣も無くなりました。時代が賢治に追い付いてきたのかもしれません。

(本文開始)

一〇九二
   藤根禁酒会へ贈る
         一九二七、九、一六、
わたくしは今日隣村の岩崎へ
杉山式の稲作法の秋の結果を見に行くために
ここを通ったものですが
今日の小さなこの旅が
何といふ明るさをわたくしに与へたことであらう
雲が蛇籠のかたちになってけはしくひかって
いまにも降り出しさうな朝のけはひではありましたが
平和街道のはんの並木は
みんなきれいな青いつたで飾られ
ぼんやり白い霧の中から立ってゐた
しかも鉄道が通ったためか
みちは両側草と露とで埋められ
残った分は野みちのやうにもう美しくうねってゐる

この会がどこからどういふ動機でうまれ
それらのびらが誰から書かれ
誰にあちこち張られたか
それはわたくしにはわかりませんが
もうわれわれはわれらの世界の
一つのひゞを食ひとめたのだ
この三年にわたる烈しい旱害で
われわれのつゝみはみんな水が涸れ
どてやくろにはみんな巨きな裂罅がはいった
われわれは冬に粘土でそれを埋めた
時にはほとんどからだを没するくらゐまで
くろねを堀ってそこに粘土を叩いてつめた
それらの田には水もたまって田植も早く
俄かに変ったこの影多く雨多い七月以后にも
稲は稲熱に冒されなかった
諸君よ古くさい比喩をしたのをしばらく許せ
酒は一つのひびである
どんなに新らしい技術や政策が
豊かな雨や灌漑水を持ち来さうと
ひびある田にはつめたい水を
毎日せはしくかけねばならぬ
諸君は東の軽便鉄道沿線や
西の電車の通った地方では
これらの運輸の便宜によって
殆んど無価値の林や森が
俄かに多くの収入を挙げたので
そこには南からまで多くの酒がはいって
いまでは却って前より乏しく
多くの借金ができてることを知るだらう
しかも諸君よもう新らしい時代は
酒を呑まなければ人中でものを云へないやうな
そんな卑怯な人間などは
もう一ぴきも用はない
酒を呑まなければ相談がまとまらないやうな
そんな愚劣な相談ならば
もうはじめからしないがいゝ
われわれは生きてぴんぴんした魂と魂
そのかゞやいた眼と眼を見合せ
たがひに争ひまた笑ふのだ

じつにいまわれわれの前には
新らしい世界がひらけてゐる
一つができればそれが土台で次ができる

(本文終了)


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