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日常生活でさえ、自然の中に住まわせていただくという心持ちで

新しい習慣


今年の夏ごろから毎朝、近くの神社に参拝して出勤するようにしている。
新しい習慣ができたことがじんわりと嬉しく、朝が少しだけ楽しみにもなった。

決まった時間に行くとたいてい神主さんが掃除をしている。しばらく通ううちに軽く挨拶をしたり世間話をするようにもなった。
同じ時間帯によく顔を合わせる人も数人いて、結構いい感じの朝の空気が流れている。

ご近所の小さな森

場所にもよるけど、神社はだいたい豊かな自然と共にあるところがほとんどで、うちの近所の神社も背の高い樹に護られるように佇んでいる。

そこはさながら小さな森の中のようで、樹の種類は少ないけど、ちょうど今は紅葉が綺麗に色づいている。最近は朝陽が手を合わせて参る横顔に差し込むようになって、最高に気持ちがいい。そんな小さな森で季節の移り変わりや天体の移動といった自然を感じている。

最近落ち葉もすごく増えて掃除が大変そうだなと思っていたのだけど、今日は特に朝から強い風が吹いていて、これまでに見たことのない散らかりようだった。

これには神主さんもお手上げのようで、あえてのノータッチ。話しかてみけると、今朝ばかりは掃除もキリがないようで、今日の掃除はお休みのようだった。(掃き掃除はしないが、枝を切ったり、今できることをしていた。えらい。)

どうして自然の中で暮らすのか

前置きが長くなったけど、今日書きたかったのは自然との付き合い方について。

毎日毎日休まず掃除をする神主さんを見て、素直に大変だなと思っていた。僕も会社へ出勤すると外の掃き掃除から一日が始まるからわかるのだけれど、今からの時期は本当に落ち葉が増えて掃除がめちゃくちゃ大変になる。

いっそ、樹を無くしてしまえばかなり楽になるのにと思えるのは、その土地で毎日掃除をしている者だけじゃないだろうか。
「自然は大切にしなきゃ。」そんなことわかっているけど、どうしようもないくらいにハードなシーズンがやってくる。

今まで箒と塵取りでやってきた掃除が、素手とポリ袋へと変わる。道具が変わる。もはや素手は道具でもない。

それでも、掃除をしてまで自然と共にある意味とは。効率的か?ばかりを考え、すごく狭い視野になっていたら恐らく見えてこない。
樹と場、そして自分にとっての利害関係、損得で考えてしまうと樹木は恐らくどんどん無くなる。
その結果が道路だらけ、建物だらけの街だし、ぼくらが住む都市だろう。

そしてそこにはまるでハンバーグの脇に添えられたパセリのような、取ってつけた自然がある。街路樹や庭の草木を人間が管理するような形で。(パセリは好きです。冷静に考えるとパセリ食べられるチャンスってここを逃すとそう訪れないと思う。)

別に自然破壊や人間の傲慢さを訴えたいわけじゃないのだけど、いつの間にかそんな形になりつつあるのでここらでペロッと話を戻します。

今朝の神社

今朝強風で落ち葉だらけの神社で感じたこと。いましがた洗濯物を干しながら突然フラッシュバックして、突然腑に落ちた。
神社は人よりも、建物よりも、先に自然があったんだ。
自然の中に住まわせてもらっている。舗装された道や建物ばかりの中で過ごしていると忘れてしまうけど、街とは多分、本来は自然だったことを忘れられてしまった場所。

毎日すごい量の落ち葉を何年も掃除してきた神主さんはもしかしたらこの感覚でいるのかもしれない。まだまだ発見や気付きが多そうな神社参拝。今後もよろしくお願いいたします。

自然や場所、人間も等しい存在。
そんな気持ちでまた明日、鳥居をくぐるのが楽しみになった。

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