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ラジオでたまたま耳にした浄瑠璃からエモさが溢れていた土曜日

ラジオは新しい発見の場所。便利なアーカイブ放送もいいけど、なんとなく聴きたくなった時につけてみて、リアルタイムでその時の出会いを楽しむのもいいものです。

先日の土曜日は出かける前に、余り過ぎた人参をきんぴらにするためにひたすら切っていました。こういう単調な作業の時は耳が寂しくなるので、iPhoneにイヤホンを挿してラジオをつける。NHKのラジオアプリをつけると、やっていたのは過去の浄瑠璃の名演の放送。全然知らないジャンルだけどとりあえず聴いてみる。

やっているのは1958年の演目だそうで、テープ特有のチリチリとした細かいノイズが心地良い。言い回しや歌い回し、何の知識もない僕が聴き取り、理解するにはかなり難解なものの、構成は至ってシンプル。

声(浄瑠璃)と三味線、この二つの音の表現で、気付いたらいつの間にか引き込まれてた。いや、でも何て言ってるかはよくわからんです。

でも三味線の表現はリズムや拍なんてものに囚われておらず、目まぐるしく変化しつづける十数分の物語りを劇的に演出している。

これを書きながら他に色んな楽器を想像してみる。ピアノ、ギター、良く知る楽器が少ないので比較はこのあたりになるけど、ギターに関しては三味線の倍の弦の数。ピアノは両手、脚での表現にも関わらず、それらと比べて三味線の表現のいかに豊かなことか。

いや、演奏や他の楽器とのアンサンブルではピアノやギターの方ができる事も表現の幅もあるけど、三味線が飛び抜けているのは多分歌う(語る)為の楽器だということ。

歌にピッタリと寄り添って奏でる三味線がとても心地良い。美味い肉は塩だけで食べたい、みたいなストレートさ。無駄の無い、最小編成の美しさ。

時に盛り上がり暴れ、乱れる三味線のリズムにはサイケデリックなロックの気配すら感じる。浄瑠璃も鬼気迫る声色で、ラウドロックの歪んだ声のようでもある。命を削って演じているこの演目はエモい以外の何ものでもなかった。

近松門左衛門は歴史の教科書でしか知らなかったけれど、江戸時代にもこうして創作の物語りを書いて、どうやって臨場感を伝えるかを考えていたと思うとなんだか生きていた人間だったんだなと改めて思える。しかも300年くらい先でもこうして作品聞かれてるってとんでもないですね。

近松マジリスペクトな土曜日の朝でした。

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