目的がない楽しさ(目的は楽しさを奪う)
最近、娘が絵や折り紙工作に没頭している。
声をかけるのが申し訳ないくらい、集中している。
楽しそうというよりも、なにかにとりつかれたような感じだ。
そういえば子供の頃は、そんなことがあったような気がする。”そんなこと”は、遊びと言い換えられる。
今の僕は、色々なものに目的をこじつけたり、なにかの目的のために行動することばかりだ。
遊びは、そのものが目的だ。
遊びとしていたものに目的を与えること、つまり目的だったものを手段にしてしまうことは、楽しさを奪ってしまうのではないか。
良い遊び悪い遊び?
良い遊びと悪い遊びってあるのだろうか。
勉強はいいけど、ゲームはだめとか、
〇〇くんとはいいけど□ □くんとはだめだとか、
仕事に役立つことはいいけど、役立たないことはだめとか
よく言われることを並べてみたけれど、なんだかしっくりこない。
それは、役に立つかどうかが良し悪しの基準になっているからだ。
いうまでもなく、役に立つことは素晴らしい。
僕がこうやってコーヒーを飲みながら、パソコンを打てるのも、無数の人たちが役立つことを作ってくれたおかげだ。
でも、それを遊びにまで適用するのは間違いだ。
何かのために遊んでいるのではなく、遊びが楽しいから遊んでいるからだ。
むしろ、何かの役に立つためという目的がやってくることで、当初の遊ぶために遊んでいた時の楽しみを味わえなくなってしまう。
だから、僕は、良い遊びの基準は、そのもの自体が好きでやっていること、報酬がなくてもできることなんだと思う。
報酬はだめなもの?
じゃあ、一切の報酬を必要にするものはだめなのかというと、それは違う。
(哲学を勉強していると、ある主義を極論まで持っていって、二項対立させることがあるけど、そのやり方は間違っていると思う)
自分の遊びを人に認めてもらうことは、遊びを続けるために重要な手段だ。
それを一切必要としない人もいるだろうが、人に認めてもらうことで喜びを得たり、お金を得て、活動を続けることができるようになる。
だから重要なのは順位とバランスだ。
楽しむことが目的で、報酬は手段。
報酬は必要だけど、そこに重きを置きすぎると、楽しみや喜びがなくなる。
楽しみと社会は両立する?
じゃあみんなそれぞれ楽しいことをしたらいいの?それで社会は世界はなりたつのか?という疑問が出てくるだろう。
とてもむずかしい問題だ。
そこへの一つの答えは、楽しみを極めて行くと、その先には自分だけに閉じない楽しみを生むことができる、ということだと思う。
泉谷先生の本は、東洋哲学や西洋哲学の観点を踏まえながら、現代の問題の核心を鋭くついている。
楽しみを振り返り、探してみる
よし楽しみを極めようとしても、そう簡単にはできない。(僕は)
楽しみをそのまま楽しむ習慣をなくしかけているからだ。
今、楽しくてやってることはなんだろうか。
僕にとっては、noteを描くことはそれだ。思いつくことを少しだけまとめたり深めたりすることはとても楽しい。
あとは、時々描く下手な魚の絵かな。魚やイカやタコの図鑑を見ながらボールペン画。気がつくと、時間が過ぎている。
昔楽しかったことはなんだろうか。
なんでも楽しかったような気がする。
虫を探したり、石で水切りしたり、友達と趣味の話をしたり。
田舎のおばあちゃんの家で、田んぼで遊んだり、美味しいご飯を食べたり。
働くことも同じかもしれない。
イノベーションを生み出すために競合調査をして、戦略を立ててでうまくいくのか?
僕は昔は研究職として働いていた。その時、研究をすること自体が楽しかった。会社のお金を使うから、完全に自由にやっていたわけではない。
自分が何か新しいものを生みだせたわけではないけど、新しい発明は、その作業自体が面白くて続けた結果なんだと思う。
100年生きるかもしれないけど、5分後に死ぬかもしれない。
とにかくあれこれやってみようと思う。
何かの役に立つということを考えずに。
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