命の価値 漁師と猫
自分にとって、深い記憶に残っていることを書いてみようと思う。
大学生院生の頃、私は海洋生物の成分の研究をしていた。
研究室は、海洋系ということもあり、海や魚が好きなメンバーが多くいた。
週末や連休、時には教員が出張中の平日などには、よく福井の海に行っていた。
夕方に大学の近くで車を借り、夜中に大学に集合し、そこから3時間のドライブ、夜明け前に海の近くの釣具屋で釣具や餌を買い、漁港で釣りをしていた。その後漁港や浜、時には貸し出しボートなどを渡りながら、時にはそのまま場当たりで宿泊をする気ままな旅をしていた。
今となっては信じられないような体力と自由さである。
いつも通り漁港の堤防で気ままな釣りをしていたある午後、釣り糸を垂らす私の前を猫がもがきながら流されていった。
堤防は高さが1メートル程度、あと数十秒すると猫は堤防に近くなり助けられる可能性があった。
魚取りの網があれば届く距離であるが、そもそも大きな魚をちゃんと釣る釣りをしていない自分たちは持っていない。
私は、同行していた友人に声をかけた。
180cm程度ある背の高い友人の足を私がつかみ、友人が手を伸ばしてどうにか猫を救うことができた。
陸に上がった猫は、そそくさと去っていった。もちろん我々も感謝を求めることはない。
猫がさっていった先には、その生活を共にする者なのか別の猫がいた。
漁港にはたくさんの猫がいる。
漁師や釣り人が魚を与えるからである。それらの猫は家猫とは異なり、警戒心を剥き出しにした鋭い目をしている。
私たちが釣りを続けていると、岸壁から離れたところで、さらに2匹の猫が海で溺れようとしていた。
暑い日に海水でも浴びようとした猫が、うっかり手足を滑らせる、ということはないであろう。
私たちは、足掻いている猫を助けるのを諦めつつ、その原因を探しに猫が流れてきたであろう方向へ向かった。
夏の空と雲、青々とした山、のどかな漁村、漁師とみられる70をすぎた男性。
男性は大きな網に猫を入れて海へ放り投げていた。
「あそこで猫が溺れていたのですが、、」私は妥当とは思えない質問をした。
「そうだ。こいつらは荒らしよるから」男性は答え、去っていった。
分かり合えぬ何かがあること、自分の正義感が揺れることをかんじた。
正しいかわからないままただ直感的に、私と友人は海に入った猫を拾い上げた。
猫は去っていった。
自分にとって救いたい命が、別の人にとっては駆除の対象になることがある。
あの漁師にとっての猫は、私にとっての蚊のようなものなのであろう。
私たちが海から揚げた猫は、再び海に投げ入れられるのであろう。
ただかわいそうだからと「助けた」命は、苦しみを倍にしただけかもしれない。
ある動物には知的能力があるから食べてはならない
ある動物はただ人間に食べられるためだけに生まれ、餌を与えられ、殺される
植物は感情を生じる能力がなく、尊厳は絶対の価値ではない
肉を食べるのは地球温暖化を促進している
食肉のパッケージに書かれた笑顔の動物
日々接する世界にも命の重さに関する問いや違和感はたくさんある。
何らかを踏みにじりながらでしか生きられない。
まだどうすればいいかの自分なりの答えにたどり着けていない。
現代はもちろん、私たちの文化の結果を否応なしに受け入れざるを得ないこの先の生命のためにも、考えていきたい。
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