2010年 札幌 3 飲めないくせにバーに行くーRaymond
2010年の夏、北海道をツーリング中の夫が、転倒事故を起こした。幸い自損事故で、命にも別条なかったが、粉砕骨折を負い、札幌の病院にそのまま入院という事態になった。手術は、プレートを入れ補強するまでの手術と、プレートを取り出す手術とで、2回に渡った。ワタシは、2010年と2011年に、札幌滞在を余儀なくされた事態に便乗して、観光を楽しんだ。
*2010年と2011年に別のブログに投稿していた記録を転載したものである。
1間ほどの間口しかないこのショットバーは、時折、ボーリングの玉が天井裏で転がっているようなけたたましい音がする。彼の奥さんは「ボーリングの音みたいね」とつい口にした。
「この人、この辺りのことはよ~く知っているくせに、ほんと、よくわかってるんですよ、この上にはボーリング場なんかないってことをね、
おまえねぇ、チョコでも食ってろ!」
と白のパナマ帽、白いシャツ、ブルージーンズの男が応じる。そのいでたちは、彼にぴったり馴染んでいる。本当は、2階にイタリアンレストランがあり、椅子を引きずっている音だそうだ。
ご馳走さま。このセリフはいかに彼が彼女を愛しく思っているか暴露しているようなものだ。
当の女性は、ロングヘア、色白の面長で周囲を和ませるような雰囲気がある。しばし、その天真爛漫な会話術に魅了された後、今度は、その彼女が、
「信じられませんよね?」
とあたしを会話に入れるために呼びかける。
「ほんと、まったく信じられませんね!」
マスターは閉所恐怖症だそうだ。なんでもこのバーを作ったとき、カウンターが壁に向かってぐるりと閉じられていて、カウンターから出るには、足元に作られた扉から、屈み込んで出なければならなかったそうだ。
「心臓がばくばくしてきて、もうこれはだめだって思ったんですよ」
それでカウンターを切って、自由に出入りできるようにしたという。
黒いシャツを着て、あご髭と口髭があるにもかかわらず、彼は少し少年っぽい。内緒話でもしてるかのように、こそこそっと話す。たぶんその話し方のせいだ。
それにしても閉所恐怖症の人間が、こんな天井の低い小さなスペースでバーを営むとは、と3人そろって彼を攻撃する。
「わたしは、そういえばぶつぶつしたものがだめなんです」とあたし。
「ぶつぶつしたもの?」とミスターパナマ帽が怪訝な顔をする。
「あぁ僕もだめです。ぶつぶつしてるもの」
「蜂の巣とか、蓮の種とか、規則正しく、並んでいるものが
気持ち悪くていやなんです」
「そうそう、だめですね」
「はぁそんな恐怖症もあるんだ」
と感心する。ひとしきり感心しつくしたところで、
「そっか~広島出身ね、広島は海のもの美味しいでしょ?」
と出身地から食べ物の話になる。
「美味しいですけど、札幌だって、美味しいですよ、ほんと何食べても美味しいですよ」
と強調する。
「う~ん、美味しいけど、種類が少ないからね」
そうかなぁ~まだよくわからん…と思う。
「そういえば、あそこ行きましたよ、ジンギスカンで有名な」
「あぁ、あそこね、観光客には有名だね」
とジンギスカン談義に入る。
どうやら、ラムなのかマトンなのか、店によって肉の種類が違うようだ。
ラムは子羊、マトンは大人の羊。
生肉を焼くのか、タレで漬け込んでいるものを焼くのか等々、
こだわりがあるらしい。
「俺は、あそこの、なんとかの****だね。」
なにしろ、慣れない場所なので、覚えようという気になれない。
そこで、ミスター黒シャツは、
「ここのすぐ近くの商店街にあるあそこが美味しいですよ。
僕はそこ好きですね」
と教えてくれた。
「観光客ってのは、冬はすぐわかるね、俺たちは、寒いのに慣れてるから薄着だけど、観光客は厚着だからすぐわかる」
と面白そうに言う。
「夏の札幌は最高だね、でも冬は大嫌いだ」
とミスターパナマ帽は、軽快に続ける。
「そういえば、こないだ、ここに来たとき閉まってたよ。いつも閉まってるじゃないか?」
「開いてますよ、いつも」
と今度はミスター黒シャツが身の上話をする。
最近結婚して子供が出来て、なんとなく、店は他の人に任せて、昼間の仕事をはじめることにした…、と。
「でも9月一杯はここにいますよ」
そっか、月日は流れていくもんだ…と、しんみりとした雰囲気になる。
話を総合すると、2人はミュージシャンか、少なくとも、昔バンドを組んでいて、かなり前から、知り合い。
そしてミスター黒シャツは、かつては相当飲んでいたが、最近は節制気味ということらしい。
1時間ほど過ごしたあと、ミスターパナマ帽は、
「そろそろ帰ります、明日仕事だから」と勘定をすませる。
でも、ふと店の片隅にあるギターに気が付くと、
「彼は、すごいうまいんだよ」
と誘うようにギターをぽろんぽろんと弾きはじめる、ブルース。
Mr.黒シャツは、いつのまにかハーモニカを吹いている。
今宵の幕切れにしては出来すぎてるよ、と思う。
「じゃぁ、良い旅を、お休みなさい」
「お2人共、良い夜を」くすっと男は笑った。
ジントニック700円 2010年8月現在。
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