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菰狂言

「よっちゃん――よっちゃんじゃないかい。なァ、そこへ行くのはよっちゃんだろ」

「へっ? あ、あの――どちら様で……」

「こっちだこっち、橋の下だよ」

「橋の下? へえ、その……確かにあたしは由蔵ですが……」

「ああ、やっぱりよっちゃんだ。懐かしいなァ」

「あの、お前さんとはどちらかで?」

「竹蔵だよ、竹蔵。ほら、近江屋で奉公してた時、一緒だった」

「竹蔵……竹ちゃん? あんた竹ちゃんかい。ちょ、ちょ、待っておくれ、今そっちィ行くから――か、顔ォよおく見せておくれ」

「へへ、懐かしいなァ」

「あっ、その笑った顔――面影があるよ。本当に竹ちゃんだ」

「よっちゃんは変わらねえな。昔のまんまの顔ォしてェる。一目見てすぐわかったよ、ああ、よっちゃんだって」

「竹ちゃんは……ずいぶん変わったなぁ。苦労してンのかい」

「えっ?」

「こんな橋の下で破れた酒樽の菰ォ被って……住むとこも着るもンもないのかい」

「あ、ああ……こりゃとんだ格好のまんま声をかけちまったな。懐かしくって、自分がどんななりィしているかも忘れちまった」

「十五年だものなぁ……いろいろあったんだろ、あれから」

「い、いや、確かにいろいろはあったけど、今ァその……」

「あのとき竹ちゃんが、あたしを庇って番頭の平吉ッさんと喧嘩してさ、はずみとはいえ怪我までさせて、もうここには居られないって店を飛び出して――」

「ああ、そうだったそうだった。意地の悪ィ野郎で、よっちゃんのことをしょっちゅういじめてたっけ。あン時は確か、よっちゃんが倉から反物を運んでくる途中に落っことしたから――」

「いやあ、あれは雪解けの頃だったよ、反物が泥だらけになったから――竹ちゃんが出てッたのは暮れだったろ」

「じゃああれだ、番頭のお供でついていって、ほら、荷物もったまま迷子ンなってさ――」

「あれは蛍売りのあとをくっついてったんだから、夏だったよ」

「じゃ、じゃあ、火鉢の上へお茶を引っ繰り返して、店中灰神楽にしちまったのは――」

「あれは紅葉の頃」

「ま、まあ、四季折々、いろんな事があったてェこった」

「そのたンびに竹ちゃん、あたしを庇ってくれて――なんでそんなにやさしくしてくれたんだい」

「そりゃあ――だって、ともだちじゃねえか」

「あたしと違って竹ちゃんは頭も良かったし気も利くし、帳面だって算盤だって得意だったし――もしあのとき飛び出さなかったら、今頃は竹ちゃんが番頭さんだったろうに」

「よっちゃんはどうなんだい。もうなってもおかしかねえ頃だ」

「うん。そろそろ所帯を持たせて、通いの番頭にって話は出てるんだ」

「そうかい。真面目に奉公続けてきてよかったなァ、よっちゃん」

「でもあの時、あたしが力ずくでも止めていりゃあ、竹ちゃんの方が……」

「なに、人の運なんてもなァ、どこでどうなるかわからねえんだ。あすこで店ェ飛び出したからこそ、今はこうして――」

「菰を被って橋の下だろ」

「い、いや、だからこりゃあ――」

「あれからあたしも心配してね、故郷へ帰ったのかと手紙を書いてみたものの、戻ってないと云うし、旦那様も方々の口入れ屋なんかに尋ねて下さったけど、どこへ行ったかわからないままで」

「そうかい、心配かけて悪かったなァ。おれも後先考えずに飛び出したものの、故郷ィ帰ったって親もいねえし、奉公の口利きをしてくれた伯父さんに合わせる顔もねえ。どうしたもンかとぐずぐずしている内に、馬喰町で知り合った旅芝居の一座の荷物持ちンなってね、あっちこっち渡り歩くうち、その暮らしに馴染ンじまった」

「旅芝居かい。そう云えば竹ちゃん、芝居が好きだったものなあ。判官とか勘平とかやったのかい」

「とんでもねえ。見るのとやるのたァ大違い。荷物持ちから裏方ンなり、手が足りなけりゃ舞台の端っこにも上がるようになったが、どうもそっちにゃあ向いてねえ。それより狂言を書いてみたくなってね、行く先々の土地の英雄豪傑、居なけりゃ寺の由来やら神社の成り立ち、そんなのを先乗りして調べて一幕物に仕立て上げる。なかなか評判も良くって、方々からも声がかかるようになったんだが、一座の者は行く度に違う出し物を覚えるんだから大変だ。こっちももっと長いもンを書きたいと思うようになって、そんで江戸へ戻って緞帳芝居の小屋ァ入り、裏方を手伝いながら書かせてもらってたんだが、それが親方の目に留まって――この親方ッてえのが、元は大芝居から流れてきた人でね。昔のつてもあったんだろう、うちにこんなのがいるよ、ちょいと面白いものを書くよと方々で引き立ててくれ、そこから段々と名前も知られるようになって――」

「可哀相になあ、竹ちゃん」

「な、なにが?」

「そこまで苦労したのに、今は菰を被って橋の下なんかに――」

「いや、だからその……エヘン――まぁあれだ、お定まりの酒と女ッてやつよ。売れてきてちょいと遊びも覚えていい気ンなってたとこへ、お袖ッてえ柳橋の芸者と馴染みンなってな。ところがまあ、こいつが悪ィ女で、お蔭で方々に義理の悪い借金を重ね、おまけに間夫だと思ってたのが他に情人が居てさ、やけ酒浴びるほど呑んだ挙げ句、酒の勢いで二ァ人がよろしくやっているところへ乗り込んでっての刃傷沙汰だ。向こうが生きているか死んでいるかァ知らねえが、あとも見ねえで逃げ出して、今じゃあ夜露凌ぐも橋の下。情けねえ身の上だが、それもせっかく売り出した、名前を捨てた身の報い。なさけのなの字を切り捨てて、残ったさけの菰被りィ――」

「そうかい、世の中には悪い女が居るもんだなあ、竹ちゃんを騙すなんて――じゃあ竹ちゃん、行くところがないんだろ。だったらあたしが世話をするから――なに、竹ちゃん一人くらい、なんとかなるよ」

「い、いやいや、よっちゃん、そうじゃねえんだ――おれァ本当は――」

「あたしは一度、店に戻らなけりゃいけないけど、竹ちゃんはここで待ってておくれ。いいかい、必ず居ておくれよ――いいね」

「おい、よっちゃん――よっちゃーん……ああ、行っちゃった……ふふ、変わらねえな、よっちゃんは。お人好しってェかなんてェか……」

「先生――ちょいと、センセー。お着物もって来ましたよ。ちょいとセンセー、どこに――あらやだ、なんて格好してンです」

「おッ、出たな、悪女」

「なんですね、いきなり。人聞きの悪い」

「はは、済まねえすまねえ、こっちの話だ」

「はい先生、お着物と――あとこれ、うちへ忘れていった煙草入れ」

「おお、こいつを忘れてったのはもっけの幸い。錦織物の煙草入れェ、濡らさずに済んだぜ。ありがとうよ、お袖」

「なに云ってるんですよォ、橋の上から落とした簪、拾ってもらったのはこっちなんですから――まさか、いきなり飛び込むとは思いませんでしたけど」

「流されちまったら困るだろう。おっかさんの形見だって、前にそう云ってたじゃねえか」

「そりゃそうですけど、先生のお着物が――」

「着物なんぞどうにでもなるが、形見は銭金じゃあ買えねえ」

「ホントにありがとうございます。でもね、先生、どうにでもなるたって、そんな破れた菰なんか着ることは――」

「濡れた着物のままじゃあ風邪をひきそうだったんでな、脱いで丸めて、代わりにそこンとこにあったこいつを――まあ、裸でいるよりましだろうと」

「いやですよ、いま江戸で売り出し中の狂言作者が、橋の下でこんな恰好をして……知ってる人にでも会ったらどうするんですよ」

「いゃあ、もう会った」

「まあ、誰にです? 変な噂でも立てられたりしたら――」

「そりゃあ大丈夫だ。よっちゃんだから」

「よっちゃん? 義右衛門さん……由兵衛さん……」

「いやぁ、よっちゃんだ。同じ頃に奉公に上がって、歳もおんなじ、聞きゃあ故郷も隣村でな、初めての奉公で心細かったとこだから、すぐに仲良くなってさ。ああ、そうだ、よっちゃんは覚えていねえようだったけど、おれァガキの時分、寝小便の癖があってな、よく叱られたもんだが……奉公の初日から二晩続けてやらかして、三日目の朝だよ。ああ、またやっちまったとベソをかいてるとよっちゃんが、ゆンべのはあたしがやりましたって庇ってくれて――そッからだよ、おれもなんかあったら、必ずよっちゃんを庇ってやろうと決めたのは」

「昔のおともだちと会ったんですか。お懐かしかったでしょう」

「懐かしいか……そうだなァ、おれァふた親を早くに亡くして親類の間をたらい回しにされ、奉公に出たものの途中で飛び出て、そっからは旅の空だ。古里って云われてもピンとこねえが、懐かしいなァと思い起こすのはいつも、小僧時分に仲の良かったよっちゃんのことだ。してみりゃあよっちゃんが、おれにとっちゃあ故郷みてえなもんさ。ああ、あとでいつもの店ェよっちゃん連れて行くから、いい酒となんか旨いもン、見繕っとくよう云っといてくれ」

 菰を脱ぎ捨てると女の持ってきた着物に着替え、頬かむりした手拭いで濡れた髷を覆うと、橋のたもとで一服やりながらよっちゃんを待っている。そこへタタタッと足音がして、十手持ちが一人、橋の下を覗き込み、

「いねえな。どこへ行きゃがった――おい、お前さん、この橋の下に男がいやしなかったかい」

「男?」

「ああ、三十くれえの、菰ォ被ったきたねえ野郎だそうだ。見なかったかい」

「い、いえ、あたしは今、通りかかったとこで……なにかしたんですかい、そいつァ」

「間抜けな野郎よ。どこぞの女に岡惚れして、逆上せあがった挙げ句にその女と間夫を叩き切ったとかッて――おかしいな、ここで待ってるはずだてェから、取ッ捕まえに来たんだが」

「取ッ捕まえる……なんでそんなことを――」

「当たり前ェじゃねえか、二人も切ってんだ。それにそいつが、ひょいと知り合いンとこでも顔を出してみねえな、関わり合いにされた方は、いろいろと面倒なことンなるじゃねえか」

「あ、ああ、なるほど……そういうことで……ああ、ほら、親分さん。あすこに菰が捨ててある。ひょっとすると裸ンなって、川ァ泳いで逃げたんじゃ――」

「川か。野郎、勘づきやがったな――逃がすかィ」

「親分さん、お気をつけて……へへ……そりゃあそうか。向こうは真っ当な商売をしてんだもんな……おれが詰まらねえ狂言を打ったばかりに、見たくねえもンを見ちまった……あんなことをしなけりゃ、懐かしいッてんで一杯飲んで、ガキの頃の話でもできたろうに……古里は変わらねえでいて欲しいッてのは、おれの勝手な思い込みか……そうだよなァ、よっちゃんがおれのことを知らねえように、おれもよっちゃんの十五年を知らねえ……月だって十五日ありゃあ、丸くなったり欠けたすらァ。それが十五年……仕方ァねえか……」
 
 歩きかけたところへ、また橋の向こうからタタタタタッ、

「竹ちゃーん、竹ちゃーん――ああ、居ない……あ、あの、竹ちゃん見ませんでしたか?」

 竹蔵は思わず手拭いを目深に引いて、「は?」

「あの、菰を被った三十くらいの男の人でして……ひょっとして、岡っ引きに連れて行かれたかも――」

「岡っ引きなら今しがた、その菰被りを探しに向こうへ行きましたがね」

「そ、そうですか――よかった、まだ竹ちゃん捕まってないんだ」

「その――竹ちゃんてのはどういう……」

「十五年ぶりに会った友達なんですよ。ずいぶん苦労しているみたいで、なんとか力になりたいと思って――でも、店へ戻ってその話したら、そんなヤクザな者と関わりあっちゃいけない、もし店に来られでもしたら大変だから、岡っ引きに頼んで捕まえるなり追い払うなりしてもらおうって番頭さんが――あたしはそれを聞いて、慌てて店を飛び出して――ああ、どこへ行っちゃったのかな、竹ちゃん。あたしの所為でこんなことになって――」

「す、すまねえ、よっちゃん」

「えっ?」

「おれだおれだ、竹蔵だよ。よっちゃんのこと、一遍でも疑ったおれが情けねえ。許してくれ」

「竹……ちゃん?」

「ああ。さっきは成り行きでつい、あんなことォ云っちまったが……ありゃあ嘘だ。ただ川ァ飛び込んで着物を濡らしちまったから、着替えを持ってきてもらう間、あんな格好をしてえただけなんだ」

「よかった、竹ちゃん――捕まンなくて」

「だから、捕まるようなこたァしてねえンだよ。よっちゃんに迷惑かけるようなこたァなにも――だから勘弁してくれねえか、な、よっちゃん」

「勘弁もなにも、竹ちゃんに謝られるようなことはしてないよ」

「そうかい、そう云ってくれるかい……ありがとうよ、よっちゃん。だけどおれの気持ちが済まねえや。せめて……こんなもンでも貰っちゃくれねえか。錦織物の煙草入れだ。おれの書いた狂言が初めて当たりをとった時に買ったもンだが、こいつを――」

「いいよいいよ、竹ちゃん。そんな高いもの」

「そう云わねえで――昔ッからよっちゃんとは、焼き芋でも団子でも、なんでも半分つにしたじゃねえか。今度また当たりをとったら、おれァ同じのを買うから、二ァ人で持つってことでさ――ほら、こうして帯のとこへ挟んで……へへ、立派な番頭さんみてえだ」

「そうかい? でも、あたしが持ったって不釣り合いだよ」

「変わらねえなあ、よっちゃんは。欲がなくってお人好しで……その変わらねえとこが、おれにとっちゃなによりもありがてえ。久しぶりに故郷へ帰ったみてえだ」

「あたしが故郷かい? ああ、だから錦を飾ったのか」

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