拝み絵馬
初午の王子稲荷、関東稲荷の総司社だけあって近郷近在はもとより、江戸の各地からも参拝客が集まってたいそうな賑わい。境内には正一位稲荷大明神と染め抜かれた五色の幟がひるがえり、ヒュウヒュウドンドンと笛太鼓の音が鳴り響く。そこへいきなり――
「掏摸だー! 掏摸だスリだ、掏摸がいるぞォ!」
「えっ、掏摸?」
「おい、巾着切りだとよ」
「なんかやられてやしねえか――」
辺りの客が慌てて懐や袂をバタバタと改めるところへ、
「おうおうおう、おめえら、掏摸はどいつだ」
「お、おれじゃねえよ」
「わかってるよ。御用で尋ねてんだ。掏摸だと騒ぎ始めた奴ァ、こっちの方じゃなかったかい」
「あ、それならほれ、あすこの石灯籠に登ってる、あの若いのが――」
「うん? ありゃあ捨松……おい、間違いねえのか? 本当にあいつが騒ぎ出したのかい」
「へえ。あんなとこへするするッと登ったんで、連れとはぐれでもしたのかと思ってたら、いきなり掏摸だァって――てめえの方がよっぽど掏摸みたいな形してるくせに」
「へへ、違ェねえ。教えてくれてありがとよ。――おい――おい、捨松。おめえか騒いでんのは。ちょっと下りてこい」
「あっ、銀蔵――」
「そんなとこでなにをキョロキョロしてるんだ。初午の手遊び太鼓でも落としたかい」
「チェッ、ガキじゃねえや」
「だったらさっさと下りてこい。いつまでもおめえの尻なんぞ見上げたかねえ」
「うるせえな。おれァなんにもしてねえよ。放っといてくれ」
「なにかしてるかしてねえか、そいつは脇ィ行って聞こうじゃねえか。さあ、ヤモリみてぇに石灯籠なんぞに張りついてねえで――倒れたら怪我人が出るぜ。いいから一緒に来な」
「ちょ、ちょ――引っ張るんじゃねえよ、危ねえな。本当に倒れたらどうするんだよ。じじいのくせに無茶しやがる」
「俺がじじいならおめえなんぞヒョッコじゃねえか。ほれ、はぐれねえよう手ェ引いてってやるよ」
「イテテテテ――やい、離せ、チクショウ」
ぐいっと手首をつかまれたまま、人込みを縫うように王子稲荷を出まして、近くの番屋へ。
「さあて――おい、捨松。さっきはなんだってあんなことをした」
「なんだよ、あんなことって」
「とぼけるねェ。石灯籠の上で掏摸だって騒いだだろうが」
「それがどうしたィ」
「おかしいじゃねえか。掏摸は――てめえの方だろ」
「へーぇ、掏摸が掏摸だと云っちゃあいけねえのかい。岡っ引だっててめえのことを、岡っ引って云うじゃねえか」
「お上の御用を務めるためにゃあ、岡っ引とも名乗るし、十手をちらつかせることもあるがな、掏摸が掏摸と名乗っちゃっちゃあ、商売にならねえだろう。それがどうして掏摸と騒いだ」
「ふん――」
「王子のお稲荷さんはあの人出だ。掏摸はおめえ一人ってこたァねえや。他にもゾロゾロいただろうさ。そこであんなことを云ゃあ、仲間内の仁義も通らねえんじゃねえのか。ただァ済むのかい」
「うるせえな。なんだってそういちいちおれの世話ァ焼くんだよ。そっちの知ったこっちゃねえだろう」
「俺がおめえの世話ァ焼くのはな、おめえがまだまだヒョッコで、今のうちならまだやり直せると思ってるからだよ」
「なに云いやがる。おれァガキの頃から兼寅一家の身内だぜ。今のうちも福は内もねえやい」
「まあ……いいや。ちょいと懐ン中、見せてもらおう」
「よ、よせよ。おれァなんにも――」
「してねえンなら、おとなしく出したがいいだろう。それともなにか、俺が手ェ突っ込んで、掻き回さなけりゃならねえか」
岡っ引きの銀蔵に睨まれて、渋々取り出したのが、
「紙入れか――」
「おれンだい」
「ヒョッコの持ち物にしちゃあ、凝った作りじゃねえか。ちょいと見せてみな――いいからこっちィ貸せ……ふーん、変わった絵が描いてあるな。龍の頭があって尻尾の方が……筆ンなってるのか。なんの絵だ?」
「さあ……」
「さあァ?」
「あ、いや、こりゃあその、魔除け厄除け、安産祈願の――」
「なにが安産祈願だ――おいッ、捨松、どういうわけだ。この番屋まで引っ張ってくる間、こんなもなァ捨てようと思えば捨てられたはずだぜ。掏摸が足のつくような物を後生大事に抱えて、なにをしようッてんだよ」
「……見覚えが――あったんだよ……」
「見覚え? この紙入れにか」
「紙入れじゃねえ、その――絵だ」
「うん? 頭が龍で尻尾が筆ってえ、この変な絵か。これがどうした」
「ガキの頃、絵馬師が隣に住んでてよ」
「絵馬師ってのは、絵馬の絵描きか」
「ああ。そいつが看板代わりに表ェぶる下げてた絵馬に、この絵が描いてあったんだ」
「おめえは五つ六つの頃におっかさんに捨てられて、どこで生まれ育ったかもわからねえんじゃ――」
「だけどこの絵は覚えてらァ。子供ながら妙ちきな絵だと、毎日眺めてたんだ」
「ふーん、なるほどそうかい。それでなぁ……掏摸が掏摸だと騒いだわけだ」
「えっ?」
「おめえ、あれだろ。すりとった紙入れを脇ィ行って改めてみて、こいつは確か――と気づいたものの、あの人出だ。持ち主はもう、どこに紛れちまったかわかりゃしねえ。それで自分から掏摸だと騒いで、スラれた相手が名乗り出ねえかと、石灯籠の上から探してたってわけだ。もし出てくりゃあこっそりあとでもつけていって、その糸を頼りに、おっかさんの居所が知れねえでもねえと――」
「か、勝手な筋書きを作るない。おれァその――ただ、たまたまスッたもンに見覚えがあったからよ、そいでちょいと、昔のことを思い出して……」
「昔のことを思い出すと、おめえは石灯籠に登って掏摸だとわめくのかい。そいつはうっかり昔話もできねえな。それで――おっかさんに会ったら、どうするつもりだった」
「な、なんでえ、いきなり」
「だからよ、この紙入れから糸を手繰っていって、もしもおっかさんに会えたら、おめえはどうしてえんだ」
「どうもしやしねえよ。ただ、どんな女だったのか面ァ一目見て……そうだな、櫛でも簪でもなんでもいいや、身につけてるもンをスリとってよ、そいつを――ドブにでも捨てるか」
「……なあ、捨松。俺ァ前まえから思ってたんだが――捨てられた捨てられたッて云ったって、おめえが覚えてるわけじゃあるめえ。そう云ってんのはおめえを拾った巾着切りの兼寅一家の連中だけだろうが。ワンワン泣いているおめえを連れて帰ったてえが、ひょっとして連中にかどわかされたのかも知れねえし、そこまでしねえでも、迷子ンなってんのを連れてかれちまったってことだって――」
「親だったら迷子札ぐれえつけるだろう。ガキの時分、どっか出掛ける時にゃあよく、真鍮の迷子札をつけられたもンだが、あの日に限っておれァしてなかったんだぜ」
「帯に付いちゃいなかったのか」
「向こうだって考えらァ。五つ六つのガキとなりゃ、赤ん坊捨てるのと違ってそこらに放り出して終いってわけにもいかねえからな。そういうときは迷子札持たせねえで、祭りだなんだと人出の多いとこへ連れてってよ、握ってた手をこう、ゆっくりと……へへ、そういや時も一緒、ところも同じだァ。十何年か前の初午ンときだよ、この王子稲荷でおれが手ェ離されたのは」
「迷子札なら付け忘れたってこともあるだろうが。初午だってンで着物や帯を新しくしてよ、うっかりいつもの帯に付けたまんまにして――」
「うるせェな。もう放ッといてくれ。証拠は上がってんだ、さっさと縄でもなんでもかけるがいいや」
「自棄ンなるんじゃねえ。おめえはよ、捨てられたってえ思いがあるから、自分を大事にできねえんだ。だけどそうと決まったわけじゃあるめえ。誰も見てねえし覚えてもいねえンだ。だからおめえ――自分は迷子だと思ってみねえか?」
「迷子?」
「ああ。おめえは迷子で、どっかでおっかさんがおめえのことを心配して、会いたがっているんだってよ。いつか会える日が来るかも知れねえ、そン時のためにも自分を大事にして――」
「へっ、冗談じゃねえ。おれが迷子? いまさらなにィ云ってんだい。それによ、おれだっていずれは捨松の兄ィなんぞと呼ばれるんだぜ。それが迷子とわかって迷子松の兄ィじゃ、まごまごしてェるようで睨みが効かねえ」
「くだらねえ心配するねえ。要はおめえの気の持ちようひとつッてことさ。そうすりゃまた、違う生き方ってのも――」
「ええ、銀造親分、掏摸にあったてえお人が外へ――」
「おお、そうかい。ものはなんだと云ってなさる。紙入れ?――龍が筆ンなってて――ああ、入ってもらえ、入ってもらえ。――おい、捨松。糸ァまだ、切れちゃいないようだぜ」
「ごめんくださりませ。わたくし浅草茅町で絵馬師をいたしております墨斎と申します者で――」
「ああ、あなたですかい。この紙入れの持ち主は」
「はいはい、これこれ――いや、助かりました。馴染みの袋物屋に頼んで作らせたもので、つい先日できあがったばかり。これを無くしちゃあ験が悪い。ありがとうございました。親分さんにはお手間をおかけしまして」
「なに、たまたまこの若ェのが、拾って持ってきてくれたんでね」
「あ、左様ですか。それはそれはありがとうございます。なにかお礼をしなくては――」
「いや、あたしの知り合いですから、改まって礼なんぞはいりませんが、その代わり、ちょいとお尋ねしたいことがありまして――この紙入れね、変わった絵が縫い取られてますが、これはどういう――」
「はいはい、これですか。これはもうご覧の通り、筆が龍になって『筆が立つ』――と。まあ、こういう判じ物が好きで、昔からこれを看板にいたしております」
「ああ、筆が立つ――なるほど、云われてみれば確かにそうだ。それで――浅草茅町にお住まいと伺いましたが、そちらにはいつ頃から」
「かれこれ五年になりますか。出入りの絵馬屋さんにお世話いただきまして」
「つかぬことを聞くようですが、十二、三年前というと、どの辺りに」
「十二、三……はて、十二、三……」
「おい、捨松。おめえのおっかさんはなんてえ名だ」
「えっ?」
「おふくろの名前だよ」
「妙……ッたかな」
「あの、隣にお妙さんて人が、五つ六つの男の子と二ァ人で暮らしてたはずなんですがね。ええ……歳ですか? そのお妙さんの――おい、おっかさんはいくつだった」
「しらねえよ」
「その……歳はちょいとわからねえんですが……はあ、商売――おい、おめえのおっかさんはなにィやってた」
「しらねえッたら」
「しらねえッてことがあるかい。一緒に暮らしてて見てんだろうが。なに、針ィ持って着物縫ってた? あたりめえだ、箒で着物が縫えるかい。ええ、針仕事の内職だそうで……人相? 人相は――おい、捨松。こっちぃ向いてこのお方によく顔をみせてみろ」
「おれの顔なんぞ見せたってしょうがねえだろ」
「親子なんだ、似てるかもしれねえ」
「あの……失礼ですが、こちらのお方は」
「いまお話ししたお妙さんて人の伜で、当時はまだ五つか六つでしたが」
「ふーむ……その黒子……目尻にチョンチョンと二っつある涙黒子に、なんとはなしに見覚えが……ああ、はいはい。よくわたくしの家の前で、口を開けて看板を見上げていた子が居りましたが――これはこれは、ずいぶんとまた大きくなられて」
「覚えてましたかい。そりゃありがてえ。で、その――そン時はどちらへお住まいを」
「ええと確か……音羽に居りましたかな。護国寺の近くで」
「音羽――おい、捨松、おめえ、音羽に住んでたんだとよ。覚えてねえか、近くにでっけえ寺があったろうが」
「うーん……あったような、なかったような……」
「はっきりしねえ奴だな。それでその……お妙さんてのはどういう人で……」
「いやいや、わたくしも音羽にはそう長くは居りませんで、ほどなく家移りをいたしましたものですから、ご近所付き合いもそのとき限り。お妙さんには何度か着物の繕いなどお願いしたことはございましたが……そうそう、ご亭主は確か仕立て職をしておられたとかで――それが御子も生まれてさあこれからという時、不意の病で亡くなられ、それ以来、女手ひとつでで御子を養われて――」
「へっ、どうだか」
「おいっ、捨松」
「女手ひとつで子を養い? その子が足手まといンなって捨てたンじゃねえか。大方、新しい男でもこさえて、邪魔ンなったから――」
「よさねえか、捨松ッ。なにもそう悪く考えなくとも――」
「悪ィもなにもねえや。喰うに困って捨てようが、色に走っておッ放り出そうが知ったこっちゃねえ。こっちにしてみりゃ同じことよ」
「よせッてンだろうが。なんだっておめえはそう決めつけるんだよ。いいか捨松、これまではどうしてやることもできなかったが、今の話で住んでたところがわかったんだ。こいつを手掛かり、足掛かりにすりゃ、本当におっかさんの居所がわかるかも知れねえんだぞ」
「あの……なにやら、聞くとはなしに耳に入って参りましたが、あなたはその、お妙さんに――その……」
「ああ、捨てられたィ」
「いやはや、まさかそのようなことなさる方とは思えませんでしたがなあ。ご亭主を亡くされたからか、それはそれはあなたのことを大事にされていて、着るものひとつ取っても、慎ましいながらいつも小ざっぱりとしたものを着せて――」
「そン時はそうでも、あとでどうなったか知れやしねえや」
「確かに人の心は変わるものですからなんとも申せませんが……そうそう、あれはいつのことでしたか、あなたが高い熱を出して寝込んだことがありましてな。お医者にみせてもなかなか良くならず、お妙さんは幾晩も付きッきりであなたの寝息をうかがっていたそうで――何日目かの朝早く、真っ赤な目をしてわたくしのところへ来られまして、絵馬の額を一枚欲しいと申される。近くにほれ、鬼子母神様がございましょう。子授け子育ての神様ですから、子供のことはなんでも鬼子母神様へお願いするのだとかで、病平癒の絵馬を描いてそこへ奉納したいとか。ならばわたくしが描いて差し上げましょうと申したのですが、一心に願いつつ、己で筆をとるからこそ神仏も助けて下さるのだと――絵馬師にとっては飯の種を取り上げられるような話ではございますが、子を思う気持ちには勝てませんで、絵筆を添えて一枚お譲りいたしますと、その場でなにやら念じながら一心に筆を走らせる。画題は拝み絵馬と申しますもので、左側に拝殿を描き、右に御婦人が手を合わせて拝みあげておられるというごくありふれた図でございましたが、われわれの方とは筆のさばきが違いましてな。上手下手で申せば無論うまくはございませんが、大胆と申しますか素朴と申しますか、なんとも思いの丈が筆先に込められているようで、ああ、これはわたくしも見習うべきところがあると――」
「なんの話がしてェんだよ、あんたは」
「いや、これはとんだお喋りを。つまりはその――このように御子を大事にされていたお妙さんが、よもやあなたを……ねえ、親分さん」
「聞いたかよ、捨松。どうだい、寝食を忘れて看病してくれるようなおっかさんがおめえを捨てると思うか、ええ? おめえを産んでくれたおっかさんとよ、育ててくれた――と云やあ聞こえはいいが、ガキの頃から扱き使ってきた巾着切りの言い分と、おめえはどっちを信じるよ」
「どっちもなにも、いきなり出てきた絵馬師の云うことなんぞ――」
「いきなりじゃねえや。おう、おめえさっき云ってたな。十何年か前、この王子稲荷の初午で捨てられたって。それが今日、同じところでおっかさんのことを知ってるってェこの人の紙入れをすった――これが縁でなくてなんだッてェんだ。さあ、一緒に来い。音羽だったらこッからそう遠くはねえ」
「ちょ、ちょ――おれァいまさら会いたいなんぞと――」
「ばか野郎、向こうが会いてえんだよ。考えてもみろィ、おめえが捨てられたんでなけりゃあ、おっかさんはこの十何年、どんな思いで暮らしているよ。亭主には先立たれ、一人息子は行き方知れずじゃあんまりじゃねえか。一刻でも半刻でも早くおめえに会いたいと思ってるに違ェねえや。いやだなんぞと抜かしたらてめえ、ふん縛ッてでも引っ張ってくぞ」
「あの――わたくしもご一緒してもよろしいでしょうかな」
「あなたも?」
「乗り掛かった舟と申しますか、わたくしの描いた絵がことの発端。それに多少なりとも御縁のありましたお方のことですし、なにかお手伝いできましたらと」
「そりゃあ、場所をご存じのあなたが一緒なら事が早い。だったら二ァ人して、こいつが逃げ出さねえよう、よォく見張って参りましょう」
王子から音羽まで、真っ直ぐ歩けば一里ほど。護国寺の森を見上げながら笹ッ葉の生い茂る坂を下り、ぐるりと回って門前へ。紙屋、水引屋の多いこの辺りから脇へ入っていって横町を曲がり、路地を抜けた先の裏長屋へ着いて――
「どうもその……当時とは様子が違いますな」
「しっかりお願ェしますよ。道案内のあんたが迷ったんじゃあ――」
「いやいや、近くの紙漉き場から漂ってくるこの匂いといい、この辺りに間違いはないと思うのですが……ああ、おばあさん。洗い物の最中、失礼いたしますが、少々伺いたいことが――」
「あんた、誰」
「こりゃあどうも。わたくし、こちらで十二、三年ほど前、住まいをいたしておりました者ですが、ちょっとその頃のことを――」
「へっ、年寄りと見りゃあ、古いこたァなんでも知ってると思ってやがる。憚りながら、あたしゃ一昨日、越してきたばかりだよ」
「あっ、左様でございますか。それはそれは……あの、どなたかこのお長屋で、お古い方は――」
「居ないよ」
「い、居ない――と申されますと?」
「七、八年前だったかに火事が出てさ、前に住んでたのはそンときみんな死ンじまったんだと。ここらァ紙屋が多いから、燃えたら早ェやね」
「や、焼けた……」
「へ……へへ……なんでえ、糸は切れてねえだのなんだのッて、引っ張ってみりゃあぞろぞろと、家は焼けた、親ァ死んだって――へっ、糸なんざ最初ッから繋がってやしねえや。そんなもなァ、王子の稲荷で握ってた手ェ離されたときから切れてンだよ」
「ま、待てまて、捨松。待ってくれ。まだそうと決まっちゃあ――」
「おれが今決めた。だってそうだろうが。捨て子だか迷子だか、誰も知らねえ見ていねえ。それを知っているはずの母親はもう死んじまった――いいや、たとえ生きていたって、やましい気持ちがありゃあ嘘をつくかも知れねえんだ。だったらおれが決めてなにが悪い。ああ、おれァ捨松で結構だよ」
「……すまねえ。俺が先走ったばっかりに、おめえにまた辛ェ思いをさせちまった。俺が一人で調べていりゃあ、こんなことには……」
「あの――」
「ああ、墨斎さん。あんたにも無駄足をさせてすまなかった。いずれ改めて詫びを――」
「鬼子母神――行ってみませんか」
「鬼子母神? なんでそんなとこへ」
「御子が熱を出されて寝込んだ時、お妙さんがお描きになった拝み絵馬。もしも残っているものでしたら、せめてあれだけでもこのお方にお見せしたいと――そう思いまして」
「いいよ、そんなもなァ。見たってなんにもなりゃしねえや」
「いいえ――いいえ、そんなことはございません。糸が切れたかどうかはともかくも、その時確かに繋がっていたという、たったひとつの証なんですよ。あの絵馬をあたくしだけが見たんじゃあもったいない。――親分さん」
「へ、へえ」
「あなたもご一緒されるでしょうな」
「そ、そりゃもちろん――」
「でしたら二ァ人してこの人が逃げ出さないよう、よォく見張って参りましょう」
音羽から雑司ヶ谷の鬼子母神までは目と鼻の先。田んぼの向こうにはもう、参道のけやき並木が鬱蒼と繁っているのが見て取れる。こちらの境内にもお稲荷さんのお社がありまして、いつもなら木立の梢から聞こえてくる野鳥の声も、今日ばかりは初午の笛太鼓の音に追い払われたようで――
「さあさ、こちらへ。古いものは裏手の方にございまして」
「ああ、なるほど。こっちにもずいぶんと絵馬がぶる下がってる。ふーん、鬼子母神様にゃあ石榴を描いた絵馬を奉納するッてえが、同じ石榴でもいろんなのがあるもんですねえ。まるで写し取ったように描いたのもありゃあ、カエルがうがいしてるようなのも……この、『心』って字に錠前を描いた絵馬ァなんです?」
「女性や酒などを断つと、心に誓って奉納するものですな。『ピンと心に錠前おろし、どんな鍵でもあきはせぬ』という唄もございまして」
「ははあ。それじゃこの、煙管と煙草入れのぶっ違いに錠前が掛かってンのは煙草断ちで、こっちの……饅頭に錠ってのは変わってるね。ええ、なになに――今日より饅頭は日に五つまでと固く誓いし候。但し大福はことの他なり――とんでもねえ甘党だ」
「そんなことより親分さん、お妙さんの拝み絵馬を探しませんと」
「ああ、いけねえ。ついいろいろあるもんで――おい、捨松。おめえも手伝え」
「おれァ御免だね」
「なにィ」
「だから何遍も云ってんだろ。そんなもン見たってなんにもならねえッて。第一、絵馬なんてなァ名前ェも書かねえんだろう。なんだかわからねえ古びた絵馬ァ持って来られて、これがおめえのおっかさんの描いたもんだッて云われたってよ、ふーん、てなもんだぜ。違うかい」
「は、はあ……確かにその……見てわかるのはわたくし一人……」
「へっ、会わせてえだの一目見せてえだのと、勝手なこと抜かしてこんなとこまで引っ張り回して――おれにどうしろって云うんだい」
「わからねえよ――わからねえけど……もう、この糸を手繰るしかねえんだ。握った糸がどこにも繋がらず、途中で切れていたって、諦めて自分から手ェ離すこたァねえ。――そうだろ、捨松。手は離しちゃあいけねえんだ」
「……勝手にしろィ」
高い木立の合間から、傾き始めた日差しが刃物の切っ先のように、斜めに幾筋も差し込んでいる。それを背中に受けて銀造と墨斎の二人は、格子に掛かった絵馬を一枚いちまい、カランコン、カランコンとめくっていく。下駄でお百度を済むようなその音に、社殿の屋根を越えて降ってくる、初午にはしゃぐ子供たちの声が時折混じる中、捨松は少し離れたところから七三に構えて眺めておりましたが、ふと、西日を返してなにかが鈍く光ったようで――
「お、おい――あの……そ、そこの――よ」
「ん? どうした」
「そこの……一番下の絵馬ンとこ――なんか光ってやしねえか」
「光った? 下の方てえと……おお、これか。近すぎて気がつかなかったが、真鍮の札みてえなものが……えっ、ちょ、ちょっと――ぼ、墨斎さん、こ、これァ――この絵馬は――」
「おお、これは――あたくしが見たのとは少し違いますが、まさしくお妙さんの筆で」
「違ェねえでしょ。そんで、あんたの住んでた音羽の長屋ッてえのは、治兵衛店ッて云や――」
「は、はい、左様で」
「捨松! あったぞ。おめえのおっかさんの絵馬と――おめえの迷子札だ」
「迷子札――?」
「そうだよ。見ろィ、子を捨てるような親が、拝み絵馬の額に迷子札ァ一緒に結わえ付けるかい。どうか見つかるようにと絵ン中で手ェ合わせてるじゃねえか。てめえで手に取ってしっかり見てみろ」
ぐいと突き出された絵馬を手にし、そこに描かれた、少し背を丸めた女が拝殿に向かって一心に拝んでいる絵にじっと目を落とす。
「絵馬に見覚えがなくとも、この迷子札には覚えがあるんじゃねえか。何度もおっかさんにつけてもらったはずだろう」
「な……なんて書いてあるんだ」
「そうか、字が読めねえンだったな。いいか、音羽、東青柳町、治兵衛店。母たえ倅、松吉、巳年五ツ――」
「音羽、東青柳町、治兵衛店……おっかさんが帯に迷子札を結ぶとき、いつも口にしてた……覚えておくんだよ、母たえ倅……せがれ……松吉……」
その声が聞こえたように、はっと上げた視線の遠い先を、一羽の鳥が天に向かって飛び去った。
「ああ、そうだ。おめえはよ、捨松なんかじゃねえ。おっかさんの大事な大事な――松吉なんだよ」
「お、おれが松吉……捨松じゃなくて……」
「あたりめえじゃねえか。誰が捨松なんて名ァつけるもんかい。おっかさんはよ、ずっとおめえのことを思ってたに違ェねえ。こうして手ェ合わせて、おめえに会いてえ会いてえと――」
「おっかさん……」
「すまなかったなァ……いつか――ってえその日にゃ遅すぎた……でもよ、おっかさんの思いはおめえに届いたんだ。この絵馬と迷子札ァ、おめえが大事に持ってろ。――自分のことも大事にするんだぜ」
「銀蔵親分。こ、この指ィどうにかしてくれ」
「なにィ」
「おれを捨松ッて呼んだ連中と縁を切りてえんだ。切るなり折るなり――頼む、親分」
「ばか野郎。てめえのことも大事にしろと云ったばかりじゃねえか。せっかく器用な指ィ持ってんだ。親父みたいに仕立て職でもなんでもできるだろうが。……おめえがこれから真っ当に暮らす気になってくれりゃあ、俺はいままでのこたァきれいさっぱり忘れちまっても――」
「で、でもよ、おれァこいつのせいで、またなんか仕出かすかも……」
「あの――それでしたら、あなたも絵馬に願掛けをしてみては」
「絵馬に?」
「ええ。もう二度と右手を悪いことには使わないと神仏に誓うのですよ。その拝み絵馬の代わりにここへ奉納されれば、お妙さんとも誓うことになりましょうし――ちょっとお待ちを」
脇の茶店で額を買ってくると、墨斎は矢立を抜いてさらさらと二枚の絵馬を描き上げ、
「さあ、これはあなた――松吉さんへ。さきほどの断ち物絵馬と同じで、右手にしっかりと錠前を掛けてあります」
「ははあ、二度と右手で悪さァしねえと」
「もう一枚は親分さんに――」
「俺もかい? なんだいこりゃあ。松の木が描いてあって、そこに錠前がかかってるが――」
「ええ、親分さんも松吉さんに、情をかけた」