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朧夜

「鶴松、鶴松――ちょっとお待ちったら」

「オヤァ、若旦那。ついてきてらしたんですか」

「ついてきてじゃあないよ。幇間のくせに気が利かないね、お前は。一人でさっさと先ィ行っちまってさ。なんだい、変な顔して首ィ傾げて――あたしゃ提灯も持ってないんだ。どうやって帰れっていうんだい」

「いえ、あたくしはもう、てっきり若旦那はお帰りにならないもンだとばかり――」

「いやだよ。お前、知ってるだろ、あたしが怖がりだって。お寺に一人で御籠りなんてできゃしないよ。あんな寂しいとこ」

「なに、夜更けンなりゃァ墓の陰からいろんなのがぞろぞろ這い出してきすから、案外賑やかなもんで」

「またそういうことを――あのね、お前はそうやって、人の見えないものを見たりしてなんか云うだろ。いけませんよ、勝手なことを云って人をおびやかしちゃ。ああ、店の者はみんな先に帰っちゃうし、お前しか居ないのかい……本来はね、夜道なんてものは一人より二ァ人の方が大概心強いもんだけど、お前と一緒となるとどうもね……」

「だったらどうぞ、若旦那は寺へお戻りンなって。あたくしは一人で帰りますから」

「ちょっ、ちょっ――どうしてそう薄情なことを云うんだよ。この辺りは藪が両方から覆いかぶさってきて、昼間でもなんかこう、ぞくぞくっとくるようなとこなんだ。あたし一人残して先ィ行くってほうはないだろ。だいたいお前はね、普段からお座敷勤めの合間あいまに、ちょろッと変なことを云ったりするだろ。欄間の向こうから青白い顔ォした禿が逆さンなってこっちィ見てるとか、血みどろの花魁が廊下の奥で髪ィ梳いてるとか――ね。見るのは構わないよ。見えるんだったら見たっていいけどもさ、こっちに云わないでおくれ。お前がなんにも云わなけりゃ、みんな何事もなくやり過ごせるんだ。だからね、お前が黙って――うわっとぉ、お、お前いまなにを避けた。え、ぴたっとそこで足ィ止めて、脇に避けたろ。な、なにが居るんだい。なんか見えたんだろ」

「犬のフンですよォ、若旦那」

「先にお云いよ、先に――お前のそういう不穏な動きに、こっちはいちいち肝を冷やすんだから。いいかい、お前にしか見えないものは黙ってる。みんなに見えるものはちゃんと云う。ね、こういう決めにして……って……お、おい、なんか後ろから足音がしやしないかい……誰かついて来てるみたな……」

「ああ……若旦那、ちょいと脇へ避けてくださいな」

「な、なんだい、なにが来るんだい」

「いいから道を空けて――エエ、どうぞお先に――」

「ちょ、ちょ――なんだよ、今のは。これ鶴松、なんだって聞いてるんだよ」

「おや、若旦那。見えないもンのことは黙ってろって話でしょ」

「見えなくたって音は聞こえたんだ。なんだかわからないままじゃ気になるだろ。云いなさいよ」

「夜道を歩いてますとね、たまにああして足音がついてくるんですよ。そン時は道を譲ってお先にどうぞッて云やァ、ツーッと行っちゃう」

「お前はまた、平然と云うね。これ、もし道を譲らないとどうなるんだい」

「さぁて、ずっとついて来るんじゃないですかねェ」

「家ィ帰っても? 戸を閉めてもだめ? 寝てると家中歩き廻る音がするの……やだな……で、でもさ、鶴松。これがうっかり飛脚のあとにくっつきでもしたら、向こうだって大変だろうね。追っ掛けてくだけでも息ィ切らしちゃって――弱ったね、どうも。えらいのにくっついちゃったよ。まさか箱根ェ越えるとは思わなかったって……笑いなさいよ。人が一生懸命、今の出来事を笑いでごまかそうとしてるんだから。
 お前ね、幇間のくせにどっかこう、醒めた目をするときがあるんだ。気をつけなきゃいけないよ。お座敷なんかでそういう目をされるとさ、お客はハッと我に帰っちまうもんなんだ。お座敷ってのは我を忘れて浮世を離れて、愉快に遊ぶとこだろ。それが醒めちまったら、そろそろ腰を上げようかってなことンなる。本来ならそれを繋いで、線香一本分でも長く遊ばせるのが幇間の腕ってもンだろうに――」

「ヨォッ、さすが若旦那ァ遊び慣れていらっしゃる。あたくしなんかより、よっぽど幇間の心得をご存じだ。生まれ変わったら幇間におなンなさい」

「そんなこと云われたってうれしかないよ。いいかい、幇間なんてのはヘラヘラしているのが商売なんだから、気を抜かないでおくれ」

「そりゃもう、お客と一緒ンときは精々気を張っておりますがね、一人で居る時までヘラヘラしてたら、そりゃあおかしな案配で」

「一人ン時はいいよ。なにをしようと勝手だけれどさ、今はあたしと話してるんだから――本当にもう……ああ、今夜は朧月夜かい。お月様が雲をまとってぼんやりとして……これが夜桜なんか見にいって、行灯の明かりに浮かぶ桜の枝越しに見上げる朧月なんてのは風情があるけどねえ。夜桜って云や、毎年いく天神様の石段の――天神様の……石段?」

「オヤ、どうなさいました、若旦那」

「えっ? い、いや、いまなんか、ふっと頭に……ああ、それであの石段に桜がこう、両方から枝を伸ばしてさ、あそこはきれいだね。下から上がっていくと桜の屋根の下をずっとくぐっていくようでさ。いい時分だと、その切れ目の向こうに朧月が霞んで見えるんだよ。今年は……あれ? もう行ったかね」

「ええ、行きましたとも。あたくしもお供させていただきましたからねェ。あン時は大層な騒ぎで――へへ」

「そうだったかい。いや、桜の枝越しに朧月が浮かんでいるのは覚えているんだけど、毎年のことだろ。今年見たもんだか去年のことだったか、なんだかぼんやりしちまって……だけどなんだね、朧月もいいけど、夜道を歩くときばっかりは、ちょいと心細いねえ」

「あたくしもね、朧月夜の晩はよくねェもンと出会うから気をつけろッて、死んだ親父に――」

「よしなさいって、もう……このままちゃんとあたしを家まで送り届けてくれたらさ、次に座敷ィ呼んだとき、帯の一本、羽織の一枚にもなろうかって……おい、鶴松、提灯が明るくなったり暗くなったりしてしてるよ。蝋燭は大丈夫かい? あたしゃお前より提灯の方が頼りなんだから――ああ、あと家までどれくらいかね。さっき、寺町の坂を下って三本杉を通ったんだから――」

「そろそろ、あの天神様の石段の下で」

「ああ、天神様ね。天神様……天神……」

「少しは思い出しましたか、若旦那」

「いや、なんか……さっきから気にはかかってるんだけど……天神様ンとこでなんかあったかね?」

「あたくしなんかより、若旦那の方がよォくご存じのはずですがねェ」

「なにを?」

「例えばあすこの石段がありましょ。ずーっと上まで続いてる」

「ああ……五、六十段はあったかね」

「あの天辺から落っこちたら、えらいことンなると――」

「そりゃそうだろう。打ち処が悪けりゃ、そのまんまあの世行きだよ」

「へへ、やっぱりわかってらっしゃる。あの時ァ雨上がりで、散った桜の花びらが石段にいっぱい張りついてましたっけ。おかげで足元が滑りやすくッて――」

「誰か落ちたのかい?」

「ええ、四十九日前に一人、よォくご存じの方が……」

「ご存じって――あたしの知り合いかい?」

「またまた若旦那。おとぼけンなって」

「なんだよ、お前は。さっきから気になるものの云い方をするじゃないか。云いたいことがあるんなら、ちゃんとお云いよ」

「あたくしもそうしたいのは山々なれど、若旦那が見えないもンの話はするなッておっしゃるから――へへ」

「お前の話はまどろっこしいよ――ああ、やっと天神様の石段だ。桜は……もう咲いてないね」

「花見に行ったのは四十九日も前ですよ」

「また四十九日かい。よく覚えてるね、お前は」

「アアタだけですよ、覚えてないのは。ま、あン時はひどく頭を打ちなすったから、無理もないっちゃあ、ないン――オヤ、どうしました。震えてらっしゃる」

「いや、なんだかこう、石段を見上げてたら寒けがして……早く帰ろう。身体がふわふわしてきて、風邪でもひきそうだよ」

「どっちへお帰りンなります?」

「どっちって?」

「家へ帰るか、それとも寺か――」

「なんで寺なんだよ。何べんも云ってるだろ、あたしは怖がりなんだ。それがどうして寺なんかに――」

「家へ帰りますてェと、お家の方が怖がるんじゃ」

「お前ね、あたしがあたしの家へ帰るんだよ。なんの文句があるんだい。どうもお前はおかしなことばかり――なにか云いたいことがあるんだったらはっきりお云いよ」

「そうですねェ、いきなり云ったんじゃあ目ェ廻すと思って、遠回しにしてたんですが……ま、ここまで来てまだ、おわかりがないッてんならしようがない。今日、若旦那が寺へ行ってたのはなんでだか、覚えていらっしゃいますか」

「そりゃ、その……誰かの法事じゃあなかったかい」

「ええ、アアタのね、四十九日の法要で」

「あたしの四十九日? なんで?」

「なんでって、アアタが花見へ行って、この石段から転げ落ちて亡くなってから、今日で四十九日目ですからねェ。あたくしも生前、ご贔屓に与りましたんで、線香の一本もと思ってうかがったんですが、生憎、当人にお目にかかッちまった」

「亡くなったって――亡くなってないじゃないか。あたしゃここに居て、こうしてお前と話ィしてるだろ」

「あたくしには見えますけど、他のもンには見えもしないし話もできないン」

「そ、そんな……お、お前ね、他に誰も居ないからってそんなこと云うもんじゃないよ。いけませんよ、見えないものが見えたり、見えるものを見えないと云ったり――ずるいじゃないか、あたしがそういうのがわからないと思って……ああ、誰か通りかからないかね。そうすりゃあたしが見えるってことがちゃんと――」

「夜更けにこんな寂しいとこ、誰も歩いちゃいませんからねェ……あたくし一人ッきり」

「あたしとお前の二人だよッ。と、とにかくね、早く家へ帰るんだ。そうすりゃ誰か居るだろ。さあさあさあ――まったくね、云っていい冗談と悪い冗談があるよ。あたしを怖がらせてなにが面白いんだか――これね、今度吉原ァ行ったら、云いたかないけどお茶屋の主人に云いつけるよ。そン時になって謝ったってね、もう遅いんだから――謝るなら今のうちだよ。聞いてるのかい、鶴松」

「ええ、あたくしの耳には聞こえますんで――」

「やめなさいッて、その云い方は。今のうちに謝れば水に流してやろうかってのに――家に着いたら終いだよ。いいのかい、鶴松」

「あたくしだって早いとこ帰りたいんですよ。どうもね、あんまりアアタみたいなのと係わり合ッてると、五臓が疲れてくるもんで」

「あ……ああそうか、あれだ――お前、あたしのことをからかってるんだろ。よくないよ、お前。お座敷でそりゃ、無茶もさせたさ。だけどそれも遊びのうちだろ。こっちはお旦で、銭ィ払ってるんだ。ね、それをお前がどう思ったかしれないけどさ、こういうところで仇ィ取ろうなんぞと、そりゃ了見が違うだろ。日頃贔屓にしてやってんだ。道で会ったってちゃんとわきまえなけりゃ、次に商売が続かないよ」

「次にお座敷のある客だったら、あたくしもそう邪険にゃしませんよ」

「あーッ、もうわかった。あたしが悪かったよ。ね、今度からは座敷で無茶は云わない。お互い楽しくさ、ワッと騒いで陽気に飲んで――祝儀だってはずむよ。だから鶴松ゥ……機嫌直してさ――そ、そうだ。家ィ帰るなんてこたァ云わない。このまま吉原へ繰り込もうじゃないか。大引け過ぎだって構ゃしないよ。馴染みの茶屋に云ゃあ、なんとでもなるんだからさ。な、鶴松」

「そうですねェ、あたくしも早いとこ、生きてるもンの顔が見たいし――」

「だったら鶴松、あたしあたし――ね、あたしの顔をごらんよ、ホラ」

「よしてくださいよ、若旦那。アアタご自分の顔をご存じないからいいでしょうが、こっちはそう近づけられると――」

「な、なんだよ。あたしの顔になんかついてるッてのかい」

「西瓜をね、さっきの石段の上から落ッことしたらどんな案配になるか――」

「西瓜とあたしの顔となんの関わりが……あっ、お前――あた、あたしの顔がそうだって――違うよォ、触ッたっておかしなとこなんてないんだから」

「自分じゃあわからないンですよ。いつまでも元のまんまのつもりでいるから……とにかくね、あたくしはちょいと道を急ぎますよ。いつまでもアアタの相手ェしてると具合がよくない」

「ちょ、ちょいとお待ちよ。おい、鶴松、どっちィ行くんだい。そこを曲がったら、天神様の裏ァ廻って三本杉の方に戻っちまうよ」

「あれ、おかしいね。こっちィ曲がったつもりはなかったのに……」

「しっかりおしよ。提灯持ちのお前がそんなじゃあ、いつまでたったって帰れやしない。やっぱりあれだね、お前と会ったときからおかしいおかしいと思ってたんだけど、道ィ間違えるのはその所為かい」

「な、なんです、若旦那」

「首がさ、ちょいと変な方に曲がってるだろ」

「ヘッ?」

「痛くないのかい。あたしゃとてもそこまで曲げられないがねえ」

「く、首ッて……別になんとも――」

「触ったってダメだよォ。自分じゃわからないンだろ。ねえ、あたしにゃ見えるけど、お前は元のまんまのつもりでいるから」

「へ……へへ……なるほどねえ、若旦那もそういう洒落を云いますか。こっちばっかり見えるもンだから、ちょいと癪にさわったッてやつだ。ねえ、そうでしょ。大体、あたくしの首なんぞ、どっちかッてえと借金で廻らないクチですからね、それがいつ曲がッたもンだか」

「お前さ、さっき花見ンとき、あたしと一緒だったって云ったね」

「ええ……お供ォしました」

「それじゃいつもみたいにヨウヨウ、ソレソレなんぞと云いながら、あたしの後ろにくっついていたんじゃあないのかい。そこへあたしが足を滑らせて石段を落ちかかる――石の地蔵じゃあるまいし、黙って落ッこちゃしないだろ。なんかに掴まろうとすりゃあお前、いちばん近くにいるのは――」

「エへ……へ……」

「お前とはよく一緒に遊んだねえ。どこへ行くにも贔屓にしてやって――箱根へも行ったし、日光まで伸したこともあったねえ……今度も一緒かい」

「ヨオッ――ヨオヨオ、若旦那。上手いねアアタ。あたくしもウッカリそんな気ンなっちまいましたよ。こりゃあ一本取られました。まさかね、そう来るたァ――へへッ、こりゃ驚いた――へへ……エヘ……」

「フフ……ウフ……お前の方こそ悪洒落が過ぎるよ、夜道でおどかしッこしようなんて――でもさ、今のお前の顔ときたら――」

「顔でしたらアアタの方が――おっとと、もうね、こんな話ァよしにして、早いとこ吉原ァ繰り込んで――あっちに行きゃあ鼻から息してンのと誰かしら会いましょう。そうすりゃもうね、こんなこたァ――さあさ、そうと決まればぐずぐずしてェるこたァない。急ぎますよ、若旦那。暗いですから足元ォお気をつけンなって……へへ、つまずきようもないでしょうが」

「おいおい、鶴松。急ぐのはいいけどさ、そっちに曲がっちゃいけないッてるだろ。真っ直ぐ行くんだよ、真っ直ぐ――しようがないね、お前は……ああ、雲がまた厚くなって、お月様がどんどん朧になってきて……おい、鶴松、真っ直ぐだよ、真っ直ぐ……」


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