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「蠅寄せ」

「旦那様、突然ではございますが、お暇を頂戴いたしとうございます」

「なんだい、番頭さん。いきなりな話じゃないか。なにがあったんだい」

「あったもなにも、あたくしが居りましたんでは、このお店の暖簾に泥を塗り、旦那様にも恥をかかせることになりますので、是非ともお暇を」

「店の暖簾に泥を塗り、あたしに恥をかかせる? そりゃまたずいぶん大事だね。そんな大層なことを番頭さん、なにかしでかしたのかい?」

「夕べあたくしが、旦那様の名代で町内の大店の寄り合いに出掛けたとお思いください」

「いや、思わなくとも、あたしが頼んだんだ。暑気あたりでちょっと疲れてたんでね、お前さんに代わりをお願いしたんだが――そこでなにかあったのかい」

「昨日はいつもの寄り合いとは違いまして、盛華楼の二階座敷を借り切っての、そりゃあ豪勢なものでした。お膳の上には鯉の洗いがあって、鮑の水貝があって、あっちには鰻の蒲焼、こっちには鮎の塩焼き。あたくしの顔馴染みと云えば、冷や奴にキュウリ揉みぐらい――」

「今度の寄り合いの仕切りは堺屋さんだからね、派手好みのあの人らしいが――それでどうしたね、食べ物の話はもういいから」

「いえ、その食べ物のことでえらい恥をかかされまして――あたくしが少し遅れて着きますと、もう皆様先に始められておりましたんで、遅れたお詫びと、名代としてご挨拶をすませましてから下座のほうに座ったんでございます。と、次の間にお膳がひとつ、ポツンとありまして、なぜかそこに、四つ割にしたスイカが一切れ置かれておりましたから、はて、これは一体なんだろうと――」

「ああ、蠅寄せかい」

「だ、旦那様、ご存じで――」

「ああいう一流の料理屋なんかじゃ、夏場、客が飲んだり食べたりしているところへ蠅が寄って来ないよう、脇へスイカだのを置いといて、そっちへ集めたりするようだが」

「な、なぜそれを先に、あたくしにひと言云っておいて下さらなかったので……そうすれば長年勤めましたこのお店を、こんな形で辞めなくとも済みましたのに……ククッ」

「こ、これ、なにも泣くことは……」

「あたくし、スイカには目がない質でございまして、ついついそちらばかり見ておりますと、堺屋のご主人がやっていらして、『伊勢屋の番頭さん、ずいぶんとあれが気になる様子だね』とおっしゃいますから、あたくしは素直に、好物なもので、と答えました。すると、『だったら遠慮することはない。この暑い中、来てくれたんだ。さぞ喉も乾いているだろう。さっきみんなで一切れずつ頂いたところだ』と、こう、耳元で囁かれまして……あたくし、なにも知らずに喜んで、そのスイカを持ってきてガブッと――」

「ああ、そりゃ可哀相なことをした。堺屋さんも悪洒落が過ぎるな」

「集まっていた大店の御主人がたも、皆、驚くやら呆れるやらで……満座でこんな恥をかかされましては、もうこの町内には居られません。旦那様も、あたくしみたいな蠅寄せのスイカにかぶりつくハエ番頭を店に置いといては、いつ後ろ指を差されることか――」

「これこれ、番頭さん。お前さんも思い込みが強すぎるよ。なにもそんなことで後ろ指なんか差されやしない。だいたい、満座で恥を、と云ったって、みんながお前さんのことを馬鹿にしたわけじゃなかろう。たいていの人は堺屋さんの方に眉をしかめたはずだ。頼むからそんなことで店を辞めるなどと云わないでおくれ。あたしゃお前さんを頼りにしているんだ。お前さんがいないと、一番困るのはあたしだよ」

「だ、旦那様、ありがたいお言葉を……それじゃ旦那様とあたくし、二ァ人してこの町内を出まして、どこか遠くでまた商売を――」

「だから町内を出ることはないんだよ。人の噂も七十五日。なにか云われたら、この度はとんだ恥をかきましたがいい勉強になりましたって、そう云っとけばいいんだ――なに? 七十五日から掛け値を引いて、元値の五十日くらいで手を打って下さい? 駄目だよ、そんなところで算盤弾いても――じゃあせめて、十日ばかり湯治に行って、心の傷を癒したい? やれやれ、お前さんも世話が焼けるね……じゃあ、じゃあこうしよう。お前さんの気が済むように、あたしがなんとか……とは云っても、満座で恥をかかされたからって、相手にも同じように、皆の前で恥をかかせるというのも大人げないね。どうだい、番頭さん。向こうが恥をかいたと思わなくとも、お前さんの気さえ済めばそれでいいんだろ。だったら近いうちにあたしがなんとかしてあげるから、それまでまあまあ、我慢をして――」

 なんとか番頭をなだめますと、それからほどなくしてなにやら理由を拵え、相手の堺屋を家へ招いてもてなすという段取りをつけます。

「ああ、堺屋さん。わざわざ来ていただいて、すまなかったね」

「なんの、伊勢屋さんのお誘いじゃあ、断るわけにもいかない」

「はは、こりゃ耳が痛い。先だって、あなたの用意してくださった寄り合いの席を、あたしは失礼したばかりだ」

「暑気あたりで臥せっているとか聞きましたが――もうよろしいので?」

「いやいや、臥せっているというほどのことでもなかったんだが、どうも外へ出るのが億劫でね、それで番頭さんに代わってもらったんだが――話を聞くと、なにやら家の番頭が粗相をしでかしたそうだね」

「粗相? ああ、あたしが洒落で、蠅寄せのスイカを勧めたら、本気にしてね。なに、あんなものは、みんながどっと笑ってそれで仕舞いにすりゃあいいものを、真っ赤ンなって俯いて、いつまでも黙っているもんだから――座がしらけていけない」

「すまないね。あれは商売一筋で遊びも知らないし、堺屋さんのように洒落も通じないものだから――ああ、支度ができたかい。だったらこっちへ持ってきて――さあさあ、一杯。どうかね。あたしはあまりやらないんでわからないんだが、出入りの酒屋が自慢して置いて行った酒なんだ」

「ふーん――ああ、こりゃあするすると喉を通って――結構なものですよ。家で買ってるのといい勝負だ。伊勢屋さんのような下戸にはもったいない」

「よかったらどんどんやっておくれ。余らせたって、家じゃあ料理に使うくらいしかないんだ」

「これだけの酒を呑まずに、料理に使うなんての罰当たりですな。まさに猫ならぬ、下戸に小判てやつだ」

「下戸に小判とは畏れ入る。どうもうちは、あたし番頭も揃って不調法で、酒は弱いし遊びもやらない。まあ精々が碁を打つくらいで――あれで番頭もなかなかの腕前でしてな」

「碁とはまた、つまらないものを」

「いけませんか」

「ああいうものは陰気でしょうがない。酒の席ならお膳を挟んでやったりとったり、商売のことだって腹を割って話もできますがね、碁盤なんぞを挟んだって難しい顔をして腹ン中を探り合うだけで、商売の足しにもなりゃしませんよ」

「はは、商売の足しですか。そんなことを考えながら打ったりもしませんが――ときにあなた、スイカは召し上がりますかな」

「スイカ?」

「よろしければ隣の部屋に用意してありますが」

「あのね、伊勢屋さん、ひとつ教えときますが――いくら自分が飲まないからと云ってあなた、酒を飲んでる時にそんな間抜けなものを勧めるもんじゃありませんよ。スイカなんぞ酒の肴になりゃしない」

「はあ、左様ですか。是非ともあなたには召し上がっていただきたかったが……では、スズキの洗いなどいかがで」

「スズキの洗い――そりゃ夏らしくて結構な肴だ。酒にも合いますな」

「そりゃあ良かった。では早速――」

 ぽんぽんと手を叩くと、仕切りの襖がスッと開く。次の間の真ん中にはスズキの洗いの乗ったお膳がひとつ、ポツンと置かれていて、女中さんがそれを堺屋の前に持ってくる。

「さあさあ、どうぞ」

「こりゃまた……変わったところから出てきましたな」

「なに、我が家のもてなしの家風で」

 家風ったって、こんな怪しい家風はない。先だって、番頭に喰わせたスイカの一件もあるし、ひょっとしてこの洗いも隣の部屋に置きっぱなしで、蠅寄せに使われてたんじゃあなかろうかと思うと箸も伸びませんで、

「いかがしました? どうぞご遠慮なく――」

「い、いや、まあぼちぼち……」

 つまの大根なんかを底の方から引っ張り出して、酒だけちびちびやっている。

「あたしは夏ですとやはり、冷や奴が一番ですかな。茗荷を刻んだのにおろし生姜、青ねぎなんかを散らして醤油をかけまわして……あれだと食の進まない時でもいただけますが――堺屋さんはいかがで?」

「あたしもまあ、豆腐は好きですがね」

「おーい、お豆腐だよ」

 ぽんぽんと手を叩くとまた次の間の襖が開く。いつの間に用意されたんだか、今度は冷や奴の乗ったお膳がひとつ。
 女中さんが運んで来たのを、

「さあさあ、どうぞ」

「い、いや、これは……あの、伊勢屋さん、お宅の台所はひょっとしてこの向こうにでも?」

「いえいえ、まさか。この向こうは裏の藪でして」

 どうにも気味が悪いんで、奴を真ん中から割って、中だけほじくって舐めるように食べてますが、これじゃあちっとも旨くない。仕方ないんでまた、酒ばかりちびちび、ちびちび。

「あたしばかり頂いてはどうも……伊勢屋さんもなにか召し上がって頂かないと間が持たない」

「さようですか。先日、番頭がご馳走になったので、なにかお返しをと思ったんですが、そういうことでしたらあたくしも――」

 ぽんぽんで襖が開き、今度はスイカが一切れ、少し薄暗くなった次の間に置かれている。

「えっ、蠅寄せ――」

「まさか。さっきまで井戸水で冷やしていたもので、まだ切り立てすよ。あたしも番頭と同じでスイカが好物でしてね。堺屋さんは――召し上がらない……それじゃあたしだけ、遠慮なく――夏場はどうしても食が細くなって、こういう物ばかりに手が伸びる。もっと精を付けないとと思ってはいるんですが、年のせいかウナギみたいな脂っこいものは苦手でして……夏場に精をつけるのならむしろ、あたしはこういったものの方が――」

 ぽんぽんと手が鳴り、襖が開く。次の間のお膳の上には小鉢が置かれ、そこへなにやら、真っ黒いものがいっぱいたかっているように見えたから、

「うわっ! は、蠅――」

「はは、なにをおっしゃる。山の芋を叩いて揉み海苔を散らしたものですよ。山葵醤油なんかで食べると、あっさりしていて結構なもので――さあさ、召し上がって」

 スズキの洗いに冷や奴、山芋の叩き和えと、夏場には申し分のない肴がならびましたが、どうにも箸が伸びない。堺屋も酒は弱くはないんでしょうが、なんだか怪しげな雰囲気の中、ろくに食べもしないで酒ばかりやっていたものですから、変に酔いが廻ってきて、

「あた……あたしは、そろそろ……」

「ああ、いやいや――そんなご様子では足元が危ない。少し休まれていった方がよろしいでしょう。そちらでちょっと、横にでもなられて――」

 手を取られるようにして次の間へ寝かされると、堺屋はそのまま、真っ赤な顔で酒臭い高いびきをかき始める。

「おい、誰か居るかい? ああ、すまないが、ここを片しておくれ。それとあの、番頭さんをちょっと呼んできて――ああ、番頭さん。お店の方はもう片づいたかい? だったらどうだね、あたしと夕涼みがてら、一盤」

「碁でございますか。そりゃあ是非ともお相手をさせていただきたいもので」

「そうかい、そうかい、じゃあ早速――おや、いい具合に風が出てきたようだよ。そっちの障子もずっと開いて――その方が風が通って気持ちがいい」

「しかし旦那様、それですと蚊が入って参りますが」

「ああ、それなら心配ない。いま隣の部屋で、蚊寄せに寝てもらっているから」

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