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月下独酌

 中国が唐と云った時代、李白という詩人が居りまして、字を太白。太白とは中国で云う宵の明星、つまり金星のことですが、母親が李白を身籠もった時、この太白星が懐に飛び込んでくる夢を見たことから、字を太白としたと
いう。生まれからして伝説じみておりますが、その詩も生涯も自由奔放、闊達自在。一生を放浪のうちに終え、まるで仙人のようだったとも伝わります。

 一時は時の権力者、玄宗皇帝に召し抱えられ、長安の都へ上ってかの楊貴妃の美しさを讃える詩なども作っておりますが、なにしろ無類の酒好きで、酔っぱらったまま宮中へ呼ばれて、お偉いさんに自分の沓を脱がさせたりなんかしたものですから、あいつは生意気な奴だってんで恨みを買って、二年足らずで都を追われます。あまりお役所勤めの柄じゃない。

 この酒好きは同じ時代に生まれ、李白と並び称される詩人の杜甫が、「李白一斗詩百篇」――李白は一斗の酒を呑んで百もの詩を詠む、とうたったぐらいで、当人もまた酒にまつわる詩をいくつも残しております。「両人 対酌すれば山花開く、一杯、一杯、また一杯」。じゃあ何杯呑むのかというと、「百年 三万六千日一日すべからく傾くべし 三百杯」。百年生きて、一日に三百杯は酒を呑もうという。で、どうなるかといえば、「三百六十日 日々酔いて泥の如し」って、案外だらしがない。有名なのが「月下独酌」――月の下にて独り呑む、で――

   花間一壺酒   花間 一壺の酒
   独酌無相親   独酌 相親しむ無し
   挙杯邀明月   杯を挙げて明月をむかえ
   対影成三人   影に対して三人となる
   月既不解飲   月すでに飲むことを解せず
   影徒随我身   影 徒に我が身に随う
   暫伴月将影   しばらく月と影とを伴い
   行楽須及春   行楽 すべからく春に及ぶべし
   我歌月徘徊   我歌えば月 徘徊し
   我舞影零乱   我舞えば影 乱れる
   醒時同交歓   醒める時は同に交歓し
   酔後各分散   酔いし後は各々分散す
   永結無情遊   永く無情の遊を結び
   相期邈雲漢   相い期すは雲漢遙かなり

 花のあいだで酒壺かかえ、友なく独り、酒を呑む。月よおいでと杯掲げ、月と影との三人連れよ。月は呑まぬし影ただ我に、従うだけの仲なれど、しばし月影ともにして、楽しくやるのも春のうち。我が歌えば月ゆらゆらと、我が踊れば影ふらふらと。素面のうちは一緒に遊び、酔い潰れればそれっきり。俗世の縁とは違っていても、永久の契りを結びし友よ。いつか逢わんと約束するは、天の川遙か彼方なり
 酒を愛し、月を愛でた李白ならではの、なんとも不思議な感じの詩でございます。

ある春の宵、李白先生いつものように、山間の湖に臨む四阿で一人、酒を呑んでおりました。中天にかかった月は朧に雲をまとって穏やかに地上を照らし、とろりとした湖の面にも、金杯を浮かべたようにその影を映しております。

「ああ、いい心持ちになってきた。都で大勢と騒いで呑むのも楽しかったが、こうして一人静かに杯を重ねるのもまた格別。月もそうだ。どこで眺めても美しさは変わらんな。湖で見れば湖月、山で見上ぐれば山月と呼び名は違い、形も半月、三日月と留まらねど、月は月。なんの変わりがあろうか。わしも都へ居ようが、山に籠もって居ようが、わしに変わりはない。この酒だって同じこと。どこで呑もうと酒は酒。天子様でも物乞いでも、呑めば酔うのはみな同じ……ああ、みなと騒いで呑むのもいいが、一人静かに呑むのもまた……うん? さっきも同じことを云ったような……」

 すっかりご機嫌で、また酒に手を伸ばそうとしてひょいと脇を見ると、四阿の隅に何かが居る。こんな山の中にいったい何者が――と目を凝らすと、大きな猿のようなものがこちらをじいっと見ております。

「うん? なんだ、おまえは。わしに何か用か? それともこの山に住む鬼、物の怪のたぐいが、月夜に浮かれて悪さでもしに来おったか」

 李白先生、若い頃は切った張ったの喧嘩もやって胆力もありますからさして驚かない。もっとも、ただ酔っぱらって面倒なだけだったかも知れませんが――

 云われて物の怪もひょこひょこと隅から出てくる。月の光の加減で金にも銀にも見える長い毛に全身覆われ、顔も半ば、隠れている。そいつが酒の入った壺をくんくんと嗅いで、

「こらァ、なんだ?」

「ほお、人語を解するか。人の言葉がしゃべれるとは面白い。これはな、酒だ」

「うまいのか?」

「うまいもなにも、酒というものは呑まねばいかん。愁いを払い、心を開き、酔えば自然と一体になれる。こんないいものはないぞ」

「オレにもくれ」

「おお、呑むがいい、呑むがいい。杯を交わせばみな友だ。それ――」

 李白先生、己の飲んでいた盃を袖口できゅっと拭うと物の怪の前に置き、酒を注いでやる。物の怪は顔を突き出し、少し匂いを嗅いでから盃を手に取ると、舐めるように口をつけた。

「ぐっとやれ、ぐっと。恐るおそる飲まれたんじゃ酒も面白くなかろう」

 云われて物の怪もぐっと盃の酒を口に含む。最初は傾げていた首が、やがてうなずくように何度も上下に振られ、

「ほぉー……うまい」

「美味かろう、美味かろう。これを不味いと云うようなものとは付き合いきれん。さあさ、もう一杯どうだ。――時におまえ、いったいどこから来た」

 物の怪は二杯目の酒をぐっとあおると、そのまま天を仰いで顎先を突き出す。

「上……山の上か? この先は道も険しく、登った者も居らぬと云うが……どうだ、こうした人知れぬ山奥にこそ、仙人の住む仙界というものがあるそうだが、おまえ、見たことはないか?」

 李白先生の問いかけに、物の怪は首を捻るばかり。

「そうか……わしもいつか、現し世に飽いたら行ってみたいものと思っておるんだがな。さて、どこにあるものやら……こうして呑んでいると、少しは近づいたような気もするが――さあ、もっと呑め呑め。酒をすすめる、きみ、停むるなかれ、だ」

 調子に乗ってやったりとったり。李白も物の怪もすっかり酔っぱらって、

「ああ、なんだかふわふわしてきた。面白ェな、酒てェのは」

「そうだろう、そうだろう。三杯呑めば全ての真理に通じ、一斗呑んだら自分というものが失せて、天地と一体になれるのだ」

「テンチたァなんだ?」

「天と地――この世のすべてだな」

 李白先生、空と地面を指さしますと、物の怪は空を見上げて、

「テンてェのは、あの丸っこいやつか?」

「あれは月だ」

「あれだったら、オレもその……一体になれるぞ」

「ほお、月と一体になるか。どうやる?」

「見てろ。こうしてな、この酒に月ィ浮かべて……」

 物の怪が月を浮かべた酒を一息に飲み干したとたん、辺りは急に真っ暗になって――

「ど、どうした? いきなり闇夜となったぞ。月はどこへいった?」

「オレの腹ン中だ。ホレ――」

 ボォッと明かりが灯ったかと見ると、物の怪の腹がまん丸に膨らんで黄色く光っている。

「へへ――どうだ」

「本当におまえの腹に入ったのか? こりゃ驚いた。歳ふりた猿の化身かと思っておったが、これほどの仙術を心得ておるとは――」

 李白先生、驚きましたが、いつも見上げては愛でている月が、何者だかわからない物の怪の腹の中に入ったというのは少々面白くない。月は夜空にあるから詩心を誘うのであって、まさか物の怪の腹を眺めて詩は詠めませんから、ちょいと意地の悪い顔で――

「いや、大したものだ。しかしな、今宵は満月、まん丸く腹の内に納まってはいるが、日を経て月が欠け、半月から三日月ともなれば、あの鉤針のような切っ先がおまえの腹の皮を突き破り、飛び出すやも知れんぞ」

 物の怪は驚いて己の腹を押さえ、

「ほ、本当か?」

「ああ、悪いことは云わん。早く元の通り、夜空へ戻してな」

 云われて物の怪、慌てて自分の腹を撫でると顔を上へ向け、ウッウッウッウッ――腹の中の丸いものがグググググッとせり上がり、喉が膨らみ、口がお盆のように広がったかと思うと、一抱えもある大きな固まりが――ゴロン。
 李白先生、思わず後ろ手にのけ反り、

「こ、これは……月か?」

「ああ」

「いや――いつも遠く眺めている月が、こうして手に触れられるほどのところにあるとはなぁ……月の下で独り酒を呑むことはあったが、月と肩をならべて呑むのは初めてだ」

「欲しけりゃ、やろうか」

「うーむ、庭先に置いておくのも悪くはないが……我、庭先に置かれし月を眺め、独り酒を呑む。飽きたらたまに転がす――どうも詩にならんな。やはり月は万人に眺められてこそ趣があるというもの。山中でわし一人見上げる時も、故郷の家族や遠く離れた友が同じように眺めていると思うからこそ、情も湧くのだ」

「じゃあ、テンへ戻すか」

「いや、待てまて。おまえの腹から出てきたか思うと、この先、見上げる月も興が殺がれる。この湖の水でちょっと洗ってな、それからにしよう」

 二人してゴロリゴロリと月を岸辺まで転がしていきますと、湖水に浸けてきれいに磨く。夜空は月をなくして星だけが静かに光っておりますが、湖の畔は半分水に浸かった月に照らされ、李白と物の怪の影が長く後ろへ伸びている。

「もうよかろう。鏡の面ほどに磨いたから、夜空へ戻しても、よもやこれが物の怪の腹から出たものとは誰も思うまい。さて――これをどうやって返す?」

「そうだな……まあ、あすこいらか」

 物の怪はざぶざぶと水に入ると、月を押しやるようにして泳ぎ始めたので、

「待てまて、どこへ行く」

 李白先生も四阿にもやってあった小舟に乗って、慌ててあとを追いかけます。山に囲まれた湖のなかほどまで来ますと、物の怪は泳ぎをやめて空を見上げる。傍らでは月がプカプカ浮いていて――

「まるで黄金の鉢を伏せたようだな。月が水に浮くとは知らなかった」

「空に浮いてるくらいだ。水にだって浮く」

「なるほど、なるほど。云われてみれば確かにそうだ。それで、これからどうする?」

「どうするもなにも――ほれ」

 湖に浮かぶ月から、ぼうっと煌めく光が煙のようにゆらゆらと天へ昇っていく。それを見上げて李白先生、

「うん? なにやら夜空にぼんやりと明るいところが……あれはなんだ?」

「ここに浮いてる月が、テンに映ってんだ」

「ほぉ、空の月が影か。見ていると段々に明るくなって……それに比べてこちらはなにやら、少し暗くなったような」

「こっちの光が、全部向こうへいったら終いだ」

「なるほど。この砂金のような光が空へと昇っていき、元の月へと返るのか」

 李白先生、小舟から身を乗り出して光に触ろうと手を伸ばす。指先に触れるものはなにもありませんが、仄かに暖かいような気もする。光を追って空を見上げると、明るさを増してきた月に黒い影が差していて――

「おお、わしの影が映っておるぞ」

 李白先生、手を出したり引っ込めたりする度に、月にその影が映るのが面白いと見えて、両手を重ねて影絵を作り、

「独り酒の戯れに、月明かりでこう、影を結ぶことはあったが、さかさまに月に影が映るとは……ええと、ウサギはこう、指を二本立てて……ほれ、ウサギが跳ねるぞ、ひょいひょいと……ウサギは月で不老不死の仙薬を作っておるそうだが、出来上がったらわしにも一っ垂らし分けてくれんかな――」

 自分で云って自分で影絵にうなずかせ、

「うんうん、と……はは、約束したぞ。そうそう、月に居るのはカニだとも云うな。カニはこう、手のひらを重ねてと……あと月に居るのはなんだ? ヒキガエルか。カエルは難しいな。こうやって、こうで、こうッと……はは、これじゃカエルだか石ころだかわからんわ……」

 李白先生、ひとしきり影絵で遊ぶと、ふっと息を吐き、

「誰か見ておるかな……おーい、わしはここだ――李白はここに居るぞ。女房よ――息子よ娘よ、この影が見えるか? 手を振っているのはわしだぞ。いつか――いつかきっとな……ああ、だんだんと影も薄くなってきた……こちらの月の光も幽かとなって、もう湖水に映る月影と戻るか……」

 ふと辺りを見回すと、物の怪の姿も消えている。

「物の怪よ、どこへいった? 夜更けてねぐらへ帰ったか? わしも酔って眠とうなったぞ。今夜はひとまずお開きとして、また酒が呑みたくなったらいつでも来いよ。月を呑むなんぞという芸当はもうやらんでもよいから……我、酔うて眠らんと欲す。きみしばらく去れ。明朝、意あらば琴を抱いて来たれ……琴でも弾いてくれればそれで十分……」

 李白先生、舟の上でゴロリ手枕、寝てしまいます。目覚めた時には、空には月に代わってお天道さまがのぼり、隅々まで照らして物の怪の気配などどこにもなく、果してあれは夢だったのかしらんと――その後も李白先生、月を眺めては、たくさんの詩を残しております。

 六十二の時、一族の者の家にて病の床につき、ついに家族の許へ帰ることなく、その生涯を終えたと伝えられますが、生まれと同様、その死についてもまた伝説が残っておりまして――曰く、李白はある夜、酔って船に乗り、川面に映る月影を取ろうとして、そのまま溺れてしまったのだとか――

「ああ、月は皓々と照らし、河は滔々と流れる。この舟に乗ったまま流れに身を任せれば、遠い家族の許へと運んでくれるかも知れんなぁ」

 李白先生、ゆらゆらと舟に揺られて一人、酒を呑んでいる。頭を掻いて、指に絡んだ白髪に目をやり、

「すっかり頭も白くなった。白髪三千丈とは我ながら奢ったもんだがな……両岸の猿どもも寂しそうに啼いておるわ。おーい、こっちへ来てわしの相手でもせんか? 酒ならあるぞ。……急に静まり返ったな……いやならいやで結構。おまえたちに頼まずとも、酒の相手はあそこにおるわ。なあ、お月さまよ。いつぞやは肩をならべて呑んだ仲だ。湖で背中も流してやったし……もっともおまえさん真ん丸すぎて、どこが肩やら背中やら……」

 盃を口元に持っていこうとして、ふと、舟の揺らぎに振り返ると、月の光に金とも銀とも見える影がひとつ。

「なんだ? わしと一緒に呑もうという酔狂な猿がおったか? ……うん? おまえもしや、あのときの物の怪――」

「こないだの酒がうまくッてな。またおめえと呑みたくなった」

「こないだ? 何十年も昔のことをこの間とはな。物の怪というのはよほど長生きと見える。わしばかりが歳をとったか……」

「なァに、毛が白くなって、オレに似てきた」

「そうか、そうか。褒められたのかなんだかわからんが、まあいい。さあ呑め、呑め」

 物の怪は差し出された杯を受け取ると、

「ああ、この匂いだ――へへ」

 杯を持つ手をすっと動かし、月を浮かべて一息に呑み干す。

「こ、これこれ、また月を呑んだな。よせと云っただろう。こう暗くては危なくていかん。早く吐き出せ、吐き出せ」

 ドブンという水音とともに、舟の傍らに金色の月が浮かびます。やれ、また洗わにゃならん、と李白が腕まくりすると――

「なあ、今度はオレんとこで呑もう」

「おまえのところ?」

「ああ、あすこで――」

 物の怪は天を示します。

「山の上か? それとも――その先か。……いいだろう。少し足が弱ったが、おまえが連れていってくれるというならどこへでも行くぞ」

「そうか……じゃあ行こう――」

 物の怪に手をとられ、李白は舟の上から一歩、足を踏み出します。と、月の光が春霞のように立ちのぼり、その光に包まれて李白の姿はすーっと――

 やがてのち、満天の星を映して天の川のように輝く川面には、一艘の舟が漕ぎ手もないまま、いつまでも静かに浮かんでおりました。

 謫仙人――天から地上へ落ちてきた仙人だと称された、詩仙、酒仙、李白。やっと天に帰って、今も一杯、やっているのではないかと――

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