呪術廻戦という本能と理性の戦い
はじめに
本記事は筆者が呪術廻戦に感じたテーマ性や主張めいたものを自由に、割と脈略なく書きなぐったモノである。本誌の内容も取り扱う為、ネタバレ的な意味で単行本派やアニメ派の方々には留意していただきたい。
1.呪霊・真人が示した戦いのスタンス
ぶっちゃけると本記事のタイトルは彼が残した言葉をそのまま使わせて貰っているだけである。
呪いという負の感情から生まれた化け物を彼は本能と称し、それと相対する人間を理性と称した。彼自身はこれをぺラッペラな正義の押し付け合い、と自嘲的に定義したが、虎杖との戦いで彼が示したこの認識はここでは終わらず、呪術廻戦という物語自体を貫いているのである。
2.宿儺という呪いの王
さて、真人は呪いの主軸とは本能であると示したが、作中で呪いの王と呼ばれる宿儺はどうだろうか。
上記画像の通り、彼の姿勢は非情に一貫している。彼が何かに思い悩んだり葛藤する描写は1ミリも無く、その瞬間瞬間を思うままに生きている。(本誌最新話を見て貰えばもっと分かりやすい。最新話では彼が自らのスタンスを語っている)
快・不快のみが指針とは、つまりは本能のままに生きているということである。彼が漏瑚へと向けた話からもその姿勢は読み取れる。
つまるところ真人の呪い=本能である、というのは呪いの王である宿儺にも共通していると言えるだろう。
3.理性の化身としての虎杖悠仁
呪いそのものであり、呪いの王である彼らが本能を体現しているとしたら、人間が掲げる理性を体現する人物とは一体誰なのか?
それは虎杖悠仁である。彼は真人との戦いの最中、自分を上記のように定義した。直前の東堂によるあらゆる仲間全員で呪術師である、という叱咤からきたものだろう。
歯車や役割といった言葉は受け取り方にもよるが、本能とは真逆に位置する言葉であり、理性と結びつく言葉でもあるだろう。そしてこれ以降、虎杖は自らを部品と称したり、自らや他者の役割を問うような発言が目立つようになる。
また、呪術師を歯車と定義する考え方は初期に伏黒によっても示されている。
真人との戦いは、彼が理性の化身として歩み始めた決定機だった。彼は直前の仲間の死から湧き出した感情を理性によって抑えつけ、呪い(本能)に対するカウンター的存在に近づいたからこそ、彼は真人との戦いに勝ったのである。(横やりが入る形にはなったが)
4.呪いの王は呪いでは倒せない?
理性、といってもそれは本能を純粋に否定するモノではない。そもそも呪いを祓う為に必要な呪力とは負の感情から生まれるモノである。負の感情とはつまり相手への憎しみや殺意であり、むしろ本能そのものである。
ややこしい話にはなるが、本能を内に秘めつつどれだけ頭を理性的に出来るか、ということである。心は熱く、頭はクールにである。
そして、これを極めなければ呪いの王たる宿儺には勝てない。
圧倒的な自己と称される彼は真人以上に本能の化身とも言える存在である。そんな存在に多少であろうと本能(=感情)を表に出して戦ってしまうのは同じ土俵に上がってしまうことを意味する。そうなってしまえばもう負け。大きすぎる炎に炎で立ち向っても勝てないという意味である。
そしてこれは五条悟が彼に敗北した理由でもある。五条は宿儺に対し、憎悪や殺意を従えた理性的な呪術師に徹することが出来ず、自らと同じ最強と呼ばれた存在へのシンパシーという本能的な感情を交え、彼を単なる祓うべき呪い以上の存在として見てしまったからこそ負けたのである。
おふざけにも見える上記の画像であるが、この河童はかなり核心に近い事を語っている。
つまり、本能の化身たる宿儺に本能を交えた人間として戦ってしまうとある種のコミュニケーションが成立してしまうのである。そしてそれは高い実力を持つほどに顕著になっていき、戦いの中で圧倒的な実力と自己を持つ大きすぎる彼に何かしらの意味を見出してしまう。だからこそ、彼に対する対処法は完璧に呪術師に徹する事であり、何の感情も交えない理性の化身となることなのである。
しかし、それは人間からかけ離れていくことでもある。
自身を部品や歯車と定義する人間が人間らしいかと言われれば疑問である。理性の化身になることとは、むしろ機械や人形じみた存在へと近づいて行くことだろう。
そしてそれは、人間であれば誰もが選ぶ安寧とした温かい南へと向かう道のりではなく、寒々とした北へと向かう身を削るような過酷な道のりである。
この先、虎杖が宿儺という呪いを祓ったとすれば、その時彼はどのような存在になっているのだろうか。
蛇足
かなり取り留めのない文章になってしまった。言いたいことが伝わっていると幸いである。
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