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内と外 -わたしの基準-

今日は、自分を生きるをはじめる、イキハジ開闢に参加。その学びの記録。


「最近どう?」のシェアから始まる。
わたしのシェアを聴いた講師から【内と外】というテーマが挙げられた。

グループシェアのときに、「内と外の基準は何?」というメンバーの問いがあり、「相手に受け入れられているかどうか。」と答えた。
そこからまた、「受け入れられるってどういうことだろうね。」と、メンバーそれぞれのシェアへと拡がる。

わたしは、「相手が自分の失敗などの行為を許している状態」を受け入れられていると思っている。
自分のいるコミュニティ(家族と学校/仲のいい友達とその他の同級生/同じ学びを共にする仲間とその他の人たちetc.)の内か外かを基準にしていると思っていたが、具体的に表現するといかに自分の外に影響されているかという事実が明らかになった。

『7つの習慣』でいうと、自分ではどうしようもない関心の輪に意識が集中している状態。
自分で影響を及ぼすことのできない範囲にエネルギーを注いでいるから一向に自分が変わることはない。常に刺激に反応をしている状態だから、周りの反応によって自分の居心地のよさが決定する。
これでは、「いつでもどこでもだれとでも居心地のいいわたしでいること」は実現しない。
そりゃあ、疲れることも多かろう。

自分が影響を及ぼすことができるのは、自分自身だけ。自分のものの観方を変えることに集中し、主体的に行動した結果、他に影響を及ぼすことがあるというのが原則。

今日の開闢の中で、しばらくは他の反応によって自分の居心地のよさが変わっているわたしがいることに抗っていた。抗うということは、それが事実ということ。
その時間はこれまた居心地が悪かった。
居心地をよくするには、自分が間違っているかもしれないという可能性に心を開くより他ない。

相手の反応によって自分の居心地のよさを決めるというわたしの基準は、間違っている。
そして今日開闢の中で知ったことは、居心地がいいかどうかの軸は「その自分が好きか?」ということを基準にすると、自分の選択によって居心地のよさを得られるということ。
その態度や言動をしているわたしを心から好きなのであれば、居心地はいい。
嫌いだという自覚があれば、どうだったら好きか?を想像し、良心に従い、自分の意志で自分の言動や行動を選択することができる。

その態度や行動をしているわたしを認知し、自覚するには、余白が必要。
そのために、「今日のわたしはどんなわたしか?自分を知っておくことが大切」ということも知ったことのひとつ。

実践するのが楽しみだ。
そして、相手はいないが、早速意識して行動してみたこと。
歯磨きをするとき、キッチンのシンクに溜まった食器が気になった。(最近は朝、お湯を沸かしながら前日の洗いものをすることが多い。)
気になったことを先延ばしにするわたしは嫌い。じゃあ、どんなわたしがすきか?
明日の朝ゆとりをもって過ごしているわたし。そのために協力しているわたし。
そんなことを考えていたら、食器は洗い終わっていた。

【継続力を発揮するところ】のピントを合わせたところで寝よう。


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