言葉についての考察

趣味で詩を書き始め、夏休み中に形にしたかったため15篇の短編詩集を作成しました。タイトルは『言葉にならない』。そこで本記事では、詩集の一貫したテーマになっている言葉についての僕の考察を書いていきます。次の投稿から詩を載せていきますが、本記事を読んでいただくとその表現の意図が分かりやすくなると思います。


言葉の誕生は善か悪か

僕は今、言葉があるおかげでnoteを書けています。言葉があるおかげで詩を書ける。みなさんの記事を拝読できる。大好きな森博嗣先生の小説やエッセイを楽しめる。これは紛れもない事実です。従って、全面的に言葉を否定することは出来ません。しかし、言葉は万能ではありません。言葉で表しきれない概念が無数に(文字通り無数に)存在するためです。そして、今の社会は言葉に支配されすぎて、それらの概念が蔑ろになっているという点が、言葉の問題点です。

例えば、色で考えると分かりやすいです。色は、色彩、彩度、明度の3要素で決まります。この組み合わせによって、青色や赤色、紺色や水色といった様々な名称が付けられています。しかし、先程の3要素はそれぞれ全てグラデーションの概念であるため、スポイトである点を吸い取るとすると、無限×無限×無限=無限の色の種類があることは自明です。"色の種類"という言葉が適切なのかも疑わしいですね。そのため、非常用的なマイナーな色の名称が死ぬほど存在していますが、じゃあその間の色は?の繰り返しで埒が明かないわけです。だったらそんなに細分化して名称を付ける必要は無いのではないかと僕は思います。

そして、色は無限に存在しているとお話しましたが、他にも無限に存在しているものがあります。それは意識です。というか、色は意識を通して認識出来ますから、体系化した考えと言えますね。意識が無限に存在しているというと語弊があるかもしれません。意識は、どこかに何かの境があるわけではなく流動的に変わります。意識は、様々な要素が影響して形成されます。同じ意識は二度と訪れません。そういった意味で無限と称しています。人間は、この形而上的な意識を、形而下的な言葉というツールで表現します。無限の意識を、有限の言葉に当てはめているわけですから、そこにはどうしても掬いきれないものが生じます。数直線上に整数のみをプロットしているようなものです。僕は、この整数と整数の間にある無限の分数にこそ、言葉で掬いきれない刹那的な意識にこそ、人間の魅力があると思っています。


言葉は記号 記号はAIが扱える

概念を、あるわかりやすい点で切り取って、ラベリングをする。それが言葉です。言葉は、他人への伝達や自分の思考の整理などに役立ちます。解像度を下げることで、人間のスペックでもスムーズに世界を捉えやすくなります。現に、言葉を発明し、利用し、文明が発達してきました。しかし、言葉があったから文明が発達したわけではありません。言葉を材料に革命的な発想が生まれ、それが言葉に還元されて一般化することにより、世界は進んできました。つまり、核は発想にあります。そして、その過程や、頭の中でぼんやりと考えていることは、言語化して他人に伝えられないですよね。言葉は記号、ツールであり、その真の価値は人間の無限の意識が生み出すと僕は考えています。

AIは、言葉を理解し、膨大なデータ(これも言葉)を参照し、適切な言葉をアウトプットします。それ以上もそれ以下もありません。(と言えなくなる日が来たら撤回します。) ポチという名の犬は、「ポチ!」と言われてもそれを自分の名前だとは認識しておらず、ただ"反応したら何かある"記号と捉えています。それ以上もそれ以下もありません。

言葉で表しきれないところに真の価値があり、それに思いを馳せることができるのが人間の魅力だというのが伝わったでしょうか。

言葉にならない部分を大切に

これが、詩集『言葉にならない』のメインテーマです。


言葉は先入観を引き起こす

本詩集の何篇かは先入観がテーマになっているのですが、これは言葉と先入観に大きな繋がりがあるからです。みなさんは、炎と聞いて何色を思い浮かべますか?多くの人はまず赤色を思い浮かべ、少し立ちどまり、温度が高くなると青色になるよな…赤と答えるのは早計か…などと想像したと思います。が、では質問です。あなたの想像した赤色と僕の想像した赤色は同じですか?答えは、限りなく100%に近い確率で"違う"ですね。質問が、同じだと証明できますか?だったら、答えは出来ない一択です。これはもちろん1例で、全ての言葉には使う人の主観が関わっています。そして他者のそれを理解することは難しいです。広辞苑というもので一つ一つの言葉は説明されていますが、使う人の育ってきた環境、置かれている環境、身体的特徴、性格などで、動詞でも、名詞でも、形容詞でも、なんであれ僅かながら使用感覚は変わると思っています。この言葉の特性を肝に銘じておかないと、他者とのコミュニケーションの中で問題が生じます。そんな言葉の罠に嵌ってほしくないなぁという願いを込めて書きました。そして、完璧に理解できるのは自分の意識だけなので、それを尊重してほしい(したい)と思っています。

余談です。初歩的な英語学習では、work=仕事をする  と習いますが、全然それだけではないですよね。本質はイメージですから、言葉によって等号で結ぶことは出来ません。前置詞の例が分かりやすい思います。前置詞は、初めは日本語訳とセットで習いますが、そのうち図とセットで習います。これは、日本語の言葉で前置詞の概念を説明しきれないからです。このように、他言語間には、この言葉はこっちの言語ではこの言葉!と安直に言葉で結びつけることは出来ないのです。これと同じで、自分と他人が使う言葉も他言語だと認識すべきだと僕は思っています。極端かもしれませんが、先述の通り、あなたの赤色=僕の赤色ではないですよね。これって他言語間の互換性のなさと似ていませんか?


言葉にならないものの大切さを詩という言葉で説いている意味


なんだか矛盾しているように思えますが、このテーマを詩にしたことに意味はあります。僕は、言葉の力を信じていません。言葉にならない部分に僕の核があると信じているからです。何度も言いますが、言葉はたかが記号(されど記号?)です。だから、ただ啓蒙的に思想を述べるだけでなく、詩という芸術を媒体として表現することで、読者が自身の核(言葉にならない部分)で自由に展開できる余地を与えられると考えました。大切なのは、詩を読むことではなく、詩を読んで自分がどう思うかです。それを他者に伝える必要はありません。言語化する必要はありません。僕は、読者の心を動かしたいわけではなく、読者が自発的に心を動かすきっかけを言葉というツールでつくりたいのです。そういうわけで、詩を書き始めました。

どうぞ自由に展開して、独自に解釈してください!




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