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7.オッケー半吉、今後の人生は?

何度か看護師さんのチェックを受けて合格し、病院内を車椅子で自由に動き回れることなった僕は、精神的にも少し自由になった。

入院以来同じテーブルで食事している3人の先輩達は、僕と同じ脳卒中だった。大体僕の父親と同じくらいだったが、この人達に病院での困り事を相談して、いろいろと教えてもらった。

仲良く話していたが、後遺症のせいか名前を覚えたのは一番入院歴の長い患者さんが退院する直前、5月末頃だった。

この患者さんは僕が入院した時点で杖で病院内を自由に歩いて、麻痺側の手も普通に動いているように見えた。この人は軽度なんだな、いいなと思っていた。

ちなみに自由にどこでも杖で歩けて、シャワーも毎日入れる状態が、患者同士マウントで最高位で憧れの対象だった。

後で聞いたら入院時は車椅子に座れないくらい重度だったらしい。ここまで回復する人もいるんだ。と勇気をもらった。

6月3日
この日から言語療法を半分程度に減らして、代わりに作業療法を増やしてもらった。

言葉が浮かばない、吃る、話してると声が枯れて出なくなる、漢字が思い出せない、といった症状は出ていた。STさんのお陰で入院時と比較してかなり良くなった。

理学療法のリハビリは杖を付いて、金属の支柱のついた歩行のための道具、装具を使用していた。歩くことはできている。

そして今握ることができ始めた手が取り急ぎの課題だ、ということで作業療法をメインにカリキュラムを組んでもらった。

この時既に利き手交換は進んでおり、見舞いに来てくれた人にも、左利きになったんだと鉛筆を握って話しをしていた。

右手が元の状態に、100%全快まで戻ることをはっきりと諦めたのはこの辺りだったと思う。

6月6日
この日は主治医や看護師、セラピストや家族が集まって、カンファレンスとリハビリ見学が行われた。

カンファレンスの内容としては入院時の体の状態及び検査結果の確認と、リハビリの計画や予後、概ねの退院予定などだった。

僕の脳内での出血はかなりの広範囲に及んでいた。ただ発症時よりは範囲が狭くなっていた。前に聞いたような説明をもう一度受ける。

運動、緊張、言語を司る部分に影響があり、それに対応した後遺症が出ている。手、特に指は回復が遅いと言われた。なんとなくニュアンスは伝わった。難しいんだろう。

足に関しては前日から杖での病院内の自由行動が認められており、回復ぶりに主治医も驚いていた。

また今後、筋肉や関節が硬くなってしまう痙縮(けいしゅく)という症状とも付き合っていかなくてはならないらしい。この時はいまいち何を言われているのかわからなかった。家族はある程度急性期病院で説明を受けているので、驚く事もなかった。

リハビリ見学は作業療法で、家族揃って僕の動かない右腕に、電気治療を施す様子を見学した。

リハビリ病院の日中は活気に満ち溢れている。

患者、看護師、医者、介護士、セラピスト、ケアマネ、清掃業者などなど、リハビリに関わるあらゆる人が、分単位で所狭しと動き回る。

僕も決められたスケジュールに合わせて分刻みでリハビリを行っていく。空いた時間は言語療法でもらったプリントをやっていた。内容はひらがなを文字に書き換える、絵を見て単語を書くなど小学校くらいの国語のイメージに近い。

なのでひたすら文字を書いていた。おかげで発症から一ヶ月で文字は左利きになった。

それ以外の時間はひたすら病院内を杖を付いて歩いていた。脳卒中発症者特有の歩き方の改善のため、体力の向上のためだ。平均1日5000歩以上は歩いていた。

とにかく日中はあっという間に過ぎ去る。

だが消灯の21時になると空気は一変する。

ナースコールと患者の鳴き声や叫び声以外は音がしない。寝れなくてスマホを弄っているが、ゲームしたり映画を見る気にならない。音楽も聴かない。

なぜならどんな面白いゲームだろうが、泣ける映画だろうが、会いたくて震える歌でも、手足口ちゃんと動くから、いいじゃん。としか思わなかった。テレビを付けても、失語の人も半身麻痺の人もいない。この時はアーティストや芸人、何なら他の人は全て、片麻痺じゃない人。だった。

スマホで調べるのは決まって、脳卒中の予後や論文ばかりだった。回復過程にどんな特徴があるのか、どんな治療法があるのか、再発率などである。

夜な夜なこんなことを調べていると、なんで自分がこうなったんだろうと問答が始まる。どの日に戻ればやり直せるんだろう。

最後には無心で泣いて、疲れて気絶するように寝ることになる。
この時期本当に夜が怖かった。

6月7日
仲の良い患者さんが目の前で体調を崩し、別の病院に運ばれた。脳出血の再発だった。

自分が発症した時を思い出して本当に怖かった。この時運ばれた患者さんは1週間ほどで病棟に戻ってきた。身近で再発を目にした僕は、更に再発や予後について敏感になっていく。

6月14日
午前中に作業療法を2時間行う。指はピクピク動く程度。握力は無い。

できない事をずっと見ている無力感と、再発や今後への不安、家に帰りたいが進まない回復に、屋上庭園に行って声を上げて泣いた。

妻が来て慰めてくれた。たくさん泣いた。

PTさんにも弱音をいっぱい吐いた。夕食前に担当の看護師さんにも今の気持ちを伝えて、また泣いた。

夕食後食事のテーブルの同じ患者さん達に悩みを相談した。

夜は母親に電話して、また弱音をたくさん吐いた。

自分の味方になってくれる人がたくさんいてくれている。幸せ者なんだなと、改めて感じた。同時に周りの人達に、自分の不便さや不安を理解してもらうのは酷だと感じた。家族や周りの人達に、同じように落ち込んで欲しいわけじゃない。

そこで自分が抱えている問題について見えてきた。今自分が嫌だと感じているのは下記三点である。
①家族や友達と会えない寂しさ
②片麻痺であるが故の不便さ
③将来への不安

対応策としては、
①面会を家族や友達に会えば和らぐ。
②リハビリしていけば少しずつは良化する。

そして現状、残った③将来への不安を払拭する術を持っていない。ここを解決しなければ暗黒時代を抜けることはできない。

患者の先輩に見守りシステムや、中庭の利用法などを教えてもらって、病院の暮らしはし易くなった。だがここにいる人達も病院の外は経験していない。

Googleに聞くしかない。
「脳卒中 なった人」と検索してみた。

これが私のターニングポイントになった。




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