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0.全吉のお話し

脳出血の後遺症で片麻痺になるまでのお話し。
僕という人間について。

1989年
姉二人を持つ長男として生まれた。
平成生まれとは信じがたい古い名前を付けられた。我ながらとても気に入っている。

末っ子長男だったこともあり、甘やかしてもらったんだと思う。

名古屋生まれ名古屋育ちの生粋の名古屋人だが、両親とも沖縄出身なため血統は100%シークワサーである。

幼稚園の時にはお泊まり保育を脱走したり、アザラシになりたがったり、好きに過ごした。

口に脊髄を生やしたような子で、一人でもずっと喋っていた。ただ、声は上限があると思い込み、嫌いな人と話すと声が勿体無いと考えて喋らなかった。

小学校ではサッカーゴールの上に立って落ちて幽体離脱したり、生徒会長をしたりした。この頃空手を始めた。

とにかく野菜が嫌いで、給食のソフトめんに入ってるネギすら草と呼んで食べようとしなかった。みんなで作ったトマトを嫌いだからと潰して、先生に引くほど怒られた。

いわゆるそこら辺にいるひょうきんでわんぱくなクソガキ、だった。

中学の頃も生徒会長だったが、まだまだ愚か者だった。車道に飛び出して車に轢かれたり、ハイキックを練習して滑り足の骨を折ったりしていた。

二人の子の父となった今思うと、自分を育てろと言われたら絶対にできない。親へは尊敬しかない。

中学の時は気づいてなかったが、僕は顔がだいぶ高濃度だった。

高校に入り、バンドを始めた。
ベースとボーカルをしていて、友達の実家である焼き肉屋でバイトをして、夜中まで遊んで、彼女とウィルコムを持つ、なんともベタな青春時代を過ごした。

音楽はゴイステ、エルレ、10feetなどメロコア、パンクなどベタベタだった。高校の卒業時に名古屋のクラブを貸し切ってライブを主催したのは小さな自慢である。

大学に入り、モラトリアムを楽しんだ。
サークルで旅行に行ったり、タイに短期留学したり、タイで見たことない蜂に刺され入院したり、卒論では哲学と社会学と生物学の観点から今時の若者が弱体化した理由について10万字近く書いた。気持ちよかった。

音楽も映画も本もたけのこの里もファッションも酒も麻雀も好きで、何より人と話すことが好きだからという理由で営業を志し、住宅メーカーへ就職した。

宅建やら保険募集人やら資格にハマる。

社会人になり、接待や飲み会で酒を飲むことが増えた。世代的に酒を飲めて煙草を吸って麻雀をし、カラオケで喝采を歌える人間が少なかったため、かわいがってもらった。

この辺りでかなり血圧が高いことを知る。周囲と比べるとフリーザのようだった。

また家でも酒を飲むようになる。
バーボンと日本酒を好んで飲んだ。孤独のグルメごっこをしながら一人でも美味しい店を探して飲み歩いていた。

よく飲みに行く取引先の社長の紹介で、妻と出会い、すぐに結婚を決める。子宝にしばらく縁がなかったが、フェレット(ちくわ)を飼って楽しく暮らす。

結婚を機に高血圧の治療に乗り出す。当時は220/180だった。食事療法と投薬で少しずつ降圧に成功する。

数年経って一姫二太郎という形で年子が産まれる。

父親が経営する会社へ転職。
この時点でウイスキーだと720ml、日本酒だと1升を1日で飲んでいた。酒飲みてーじゃなく、酔っ払いてー。の状態。

週に1日の休肝日を作ることに成功。血圧は150/110まで落ち着いた。

30も半ばを迎えようとするタイミングで、家を買う。

好きな色 黒
好きな食べ物 ちくわ
好きな酒 ブラントン、ターキー、〆張鶴
好きな曜日 火曜日
好きな映画 人生スイッチWild Tales
好きなお菓子 チョコボールピーナッツ

嫌いな食べ物 椎茸、松茸

そんな僕は34歳で脳出血を起こし死にかけ、半身麻痺になりました。

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