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高次元の悩みの理解〜



 現状認識している問題の解決には、一つ下の次元で論考することを勧める動画があった。なるほど理解できるお話であった。実際私たちが文章で論考するのは、この効果を無意識的にでも理解しているからだろう。3次元での事象はほぼ言語化されており、言語を用いて、つまり2次元のプラットホームで3次元のことを考えている。文字で理解するために3次元を記録しているわけだ。

では高次元の事を理解できない理由も、高次元の事象はこの方式の埒外にあるからではないか?と、思いついた次第だ。私たちは3次元において問題の解決が出来ない。4次元的な立場から3次元の事象を網羅できていないという事だ。情報の収集の際に見落としている要素がある、と言う意味に捉えても良い。

1次元は“存在する“と言う事を認める事。
2次元は“そこに意思がある“と分かる事。
3次元は“自己愛“である。
4次元は“他者への愛“となる。

これより古い考え方に‥
1次元は“点“
2次元は“線“
3次元は“立体“
4次元は“時間“
5次元は“意識“

と言う物もある。この辺りは観察者又は当事者等の立ち位置の違いから、心情的又は数学的言い換えれば、哲学及び宗教的な立場と、分析又は科学的立場の違いがあるだけで、解釈は矛盾していないように思える。
次元上昇していようがいまいが、つまり認識や理解していようがいまいが、私たちを含む世界の動きと言うものは確かにある。
説明つかない事象とは、新しい原理の不足不在が問題なのではなく、2次元上の考察の範囲を超えていると、言葉では表現できない事象であると考えた方がスムーズである。現在の日本語表現≒伝達の限界が来ているのではないだろうか。
言語の基本的な役割を思い出してみると、より正確に事象を伝達するためにある、存在すると言えるであろう。それ故に近くが進歩し次々に認知されてゆく様々な事象を伝達するために言語学視されてきているわけだが、恐らく我々の言語は高次元の事象を正確に伝える術がない。これは言葉の持つ意味を削減し続け、限定的にしてしまった功罪なのかもしれない。

恐らく文章には“間“という要素が不可欠なのである。現代の日本語は欧米の言語に似せるために、まるで早口でだらだらと文字数だけを増やしてゆき、機械語のようだ。逆に考えるとそうすることで伝達事項の曖昧さを廃して今までやって来れたのだろう。しかし伝達する内容によって、正確さを記するのであれば尚更、もっとゆとりのある言語で表現すべきではないのだろうか。そして機械語の如き日本語に慣れ親しんだ国民も、言語に対する感受性を急速に失いつつある。曰く行間が読めない・背景を想像できない(読めない)読者の急増に、作家は頭を悩ます状況だと聞く。
 例えば和歌短歌の類は次第に外国語めいた存在になりつつあるのだ。
季語という俳句の常識がある。季節ごとにそれを暗示する言葉があり、それら単語を歌に必ず入れるのだ。ということは季節感なくしては和歌短歌は表現できない、しないと言うルールがあったということだ。この辺りが季節≒自然と寄り添って日本人は生きてきたと言われる所以なのかもしれない。当時はそれが常識であった。その常識を踏まえた上での少ない文字数の表現だった。今の若者やむしろ私たち世代にも次第に不明瞭になってゆく言語表現である。また“歌“という単語が和歌短歌に含まれるように、これらは声にして読まれる前提の言葉であり、更に言えば音が先の言葉でもあると言っていいだろう。
そのせいか音の持つ可能性が詠唱を聞けばしみじみと感じさせられるのも、これら和歌などである。まず音が聴衆に届き、彼らの中の常識と結びつき一つの意味をなす。音と意味の共演が詠唱中続き、やがて彼らに一つの感動をもたらす。これが和歌短歌に見られる情報伝達のモデルだ。現在では文字からこの世界をのぞこうとして、理解できない不条理に投げ出すものも多い。つまりは現在の慣れ親しんだ文字からの分析という、本来は意図されない方法で情報を理解しようとしているためであるとも言えるのだ。
いつの頃からか私たちは“音“の持つ意味よりも“文字“に割り振られた意味を信じるようになった。文字の持つは最大公約数的でなければならないという宿命を負わされ、頑なにその内包物を守ろうとする。一つの限界・つまり概念の大爆発によって表現しなければならない情報が激増したため、熟語という文字の組み合わせの発明がされ、その熟語には更に多くの意味を持たせることとなった。文字偏重の時代の完成とも言える。
接頭接尾語というふうにどんどん冗長になっていったヨーロッパ起源の言葉とは違い、日本語では新しい概念を閉じ込めうるいくつかの文字が選択され、読みが後からついてきた。そういう意味ではヨーロッパ言語は音を重視した言語なのかもしれない。いずれの方式においても、新しい概念が発見されるたびに、新しい単語熟語を生み出し続けなければならないという一種ジレンマに陥りのたくっているわけだ。
翻って他の音声映像などの表現手段に対して、文字の持つ優位性を考えてみよう。一つにはサイズが小さくなること、そのことにより可搬性・保存性が増すことがあげられる。

私たちの頭蓋の中で常に行われる、事象の言語への変換作業というものは、文章化への一つの過程である。意識せずも最終的なアウトプットは言語文字であると私たちは認識している。このことは現代社会の一つの傾向と、隠された功罪を暗示している。常に表現は文字によるべしという掟めいた意識が私たちには常にあるということなのだ。またそれを常識として受け入れている様子がある。
和歌の世界では歌に対して返歌という手段がある。音には音を持って返答するという、なんとも根源的な感想の表し方である。かように音には双方向的な対応が可能であった。しかし文章に対する私たちの態度は一体どうなのだろうか⁇感想文?がある?精緻に編まれた文章に対しての返答の文章としてはいかにも劣る文章ではないだろうか。つまり文章を主とした現代文明は一方的に情報を受け取るだけの態度を強要するかのような文明なのだ。私たちの作文能力は一体どこにおいてきてしまったのだろうか?読むことはできても語る言葉がない、これは英語を読むことはできても喋れないという日本人に多い状況にも似ている。
私たちは文明における被支配層なのか、そう感じざるを得ない状況が続いている。このさきメタバースが主流となり、思想の発露の場がそこに移っていったとしてもなお、言葉は文字の羅列として残り続けてゆくことだろう。この理由は単純でメタバース等のプログラムは現言語で実現されているからだ。現実世界は言語だけでは表現しきれず、ましてや言語で編纂されてもいない。それ故に様々な表現手段で捉えようとしてなお表現手段に不足する存在なのだ。
であるならばこの言語化のプロセス自体は、ある意味不要な物ではないのか?または表現の目的によって本来使い分けられて然るべき者なのではないだろうか。仮に新しい表現手段ができたとしても、実際のところ最大の問題は受信者たる私たちの感受性の方だろう。わかりやすい方法を取らずにはいられないのも、また人の性である故。周囲に理解されたいという本能的な願望が私たちを離してくれない。
感動を絵画に込めきれなかった不安が、作家をして付帯する要素への付け足しへと走らせる。額装だったり展覧会だったりタイトルであったり。言葉というものは本来客観的な事象の表現手段の一つであると考えている。至高のものではない、ただ理解者が多いという一点において採用される表現手段であろう。何せいくらでも付け足しができるのが言語の特徴であるわけだから。このように外観をどれだけ精緻になぞっていけるのかに、言葉を擁する語り手は神経をすり減らすのだ。
現代の社会の中でもそれでも日本語のコンパクトさは散見される。法令集などもいい例である。外国の法令集の分厚さはその言語の限界を示す指標でもある。判例は感情感傷的な表現を極力廃し編纂者の信じる正解のみを淡々と記すものであるからだ。ヨーロッパ言語は言葉の正確性を様々な文字を追加することで実現している。話し言葉では有効な手段が、文字においてはなんとも複雑な様相を呈することとなっている。

言葉は数式にはならない。数式の読みをいかに朗読しようにも、その本質は伝わらない。数式の意味を知る者のみが、その素養の限界までにおいて意思の疎通が可能となる。本来性質の異なる“概念“そのものを言葉で・音で伝達しようという試みには、本来無理があるということだ。

 現在のスピリチュアルな事柄は、レッテル貼りの挙句に妄想という括りで、路地裏に積み上げられたガラクタのように扱われてはいる。よく出てきて語られる単語(2次元的表現)には、次元上昇、真実の歴史、異星人、人類の起源、UMA、UFO、オーパーツ、古代文明、陰謀論、パラレルワールド等々がスラスラと出てくる、が皆強く興味を惹かれないだろうか?
とりわけ時間の経過もしくは時間そのものに対する認識、同様に空間の認識時空と呼ばれる連続した場に関する言葉の構築が繰り返されているようだ。
言葉の構築や改善はあくまで、2次元で理解を進めようという想いを反映しているのだろう。これを無駄な努力とは言わない。しかしガラクタと言われた物たちの場所から、更に上の次元の立ち位置から、4次元を考えてゆく事で、4次元の事象を3次元で考えると言うことが可能になりそうだという予感はある。
これら次元の話は言葉に理解を即すために数字の要素を組み込んだことで、理解を逆に妨げていると言えるのかもしれない。私たちは数字の進みという概念を時計や年号の現実性により妄信させられている。時間は一方向にしか進まないという“常識“が逆に次元の概念を複雑なものとして、矛盾として捉えてしまうのかもしれない。
次元の理解は文字・文章化できるかにかかっている訳ではなく、いかに体感できるのかに係っているように感じられてならないのだ。

言葉の持つ力は、事象を固定して認識を共通化する。この事により見たことも聞いたことのない物でも、言葉の意味を知ることでそれだけで、論考が可能になる。
ただ、個人的には3次元の事象を全て2次元で記録し尽くしても、尚説明不能な事柄は存在し続ける。これらを理解するためには、論考の場を一つ上の次元に引き上げることが、必然ではないかと感じ続けているのだ。
一つには単一視点の記録から、複数視点の記録への移行。この良い例は“並行世界“の立ち位置だ。個人という立場を取りつつ、他者の視点を受け入れるという事は、“他者への愛”と言う表現が至極あっているのではないだろうか。
又時間の流れ広がりを認識することで、現在の自己から時空間の中にいる自己という意識の変化向上が現れるのではないか。

私たちの今までは、認識のし易さを優先した記録の運用を続けてきたため、全て安易に文字で表現即ち2次元に変換してきた。そして言葉には固定の概念を付与してきた。この場合の言葉は文字のことである。現在の日本の混乱は、キャパを広げるために改良し過ぎた、文字の解釈に起因するところも大きいと感じている。どう言うことか?言葉は世界中どこでも“音“として生まれた。その時代が長く続いて、後世に残す必要性ができた時に、文字が生まれたのではないかと考えている。しかし文字にも失伝と言う危険性はある。子孫が文字を読めなくなる可能性のことだ。巨石などに刻印した時代、製作者たちはそんな事まで考えたのだろうか?寧ろ後世に置いて失伝しつつある現状を憂いた指導者がこれを回避する方法を考え、口伝などを実践していったのではないかとすら思う。絵画や像に込められた現在でいうところの記号なども、その類なのではないだろうか。


数字も古い歴史を持つ。

数を記録する必要性が生じたのは、商取引の他者の存在の認識や物の保管保存の方法が確立し、獲物をその場で交換する必然性が低下した事が、一つの要因であろうと思われる。その際に物の価値という相対的な概念が、長期的な視点が加わることによりある程度固定化していったと見ることができる。即時性から長期的な視点への思考の変化というものは、想像以上に大きな変化であり、この時点から少なくとも未来という想念が確立していったと断じても良いのではないだろうか。
数字と時制の関係はこのような出自で始まったのではないだろうか。時制を考えるにあたり、極めて数学的な思考方法がすんなり受け入れられる背景に、こんな歴史がありそうだ。そして不確定的な未来に対して、確定した連続する時空の過去という概念も生まれる。本来的には時空というものは固定したベクトルを持たない、いわば自由なものであったはずだが、人の不安が確かなものを求めるが故に、まず過去をそして未来をも確かなものとして希求した結果が現在の人に受け継がれた時制の認識のベースになっているのであろう。因果律などもこの流れに乗ったもので、過去と未来前世と現世を混濁した中での因果応報を解いている。考えてみれば時空の特徴をこれほど的確に示している事例は少ないのではないだろうか。過去の隣り合わせに未来があり、それぞれが関連しているという関係性にまで論が及んでいる訳だから。反面その方法では辿り着けない数学的な論法で時空を考察するという不思議なやり方を止められないと言うのも何とも皮肉で無様な有様である。


言葉以外のもので考える方法。

時間と言うものの捉え方だが、今ここ現在は現在では認識されているのだろうか?時を塊のような物と認識すれば、今ここは同じ時間の塊の中で認識できると言えるだろう。しかし時間を1方向に不断に流れてゆく基準だとすると、今ここはすぐに、少し前のこことなってしまう。
録画した動画を同時に再生しながら見ていたとしても、厳密には多少の遅れがあるため全く同時とは言えない。この不自由な制約は、ひとえに“時間“と言うものの認識に起因している。言ってみれば、矛盾した前提で問題を作り続けていると言った状態だ。
そもそも時間が一定方向に向かって流れるモノであるならば、時間を止めない限り今ここを見る事は不可能である。人は内側にあるものどう外側にあるものを常に混同し、また同化して考えがちだ。ひとまず分かっている方の事象を、不明な事象の指標にしようと(代数的な発想)する。事象の理解に数学的な真理・定理を持ち込んだことが、ある意味近現代の不幸の源ではないのだろうか。

伝える必要がないものであれば、何も音葉を使わずとも良いところだが、どうにも私たちには言葉で考える癖が深く染み付いている物のようだ。それ故の限界を知りつつも、イメージの原型に麻布を漆で貼り付ける塑像作りのような手法で、その正確な雌型を作るために様々ななぞり倒すような思考を続けていく。と言うことはたどり着いている本質よりも、大量に複写のできる型の方にむしろ本能的な関心が高いと言うことだろうか。欠乏に対する、将来的な欠乏感に対しての精神的な予防としての、再生産の手段としての思考の産物である文書を求めてやまないのだろうか?
自然を眼前にして写生に勤しむ、写真の動画の撮影に勤しむ、デジタルの世界で世界を再構成するそんな願望は、それら原型のイメージが失われることの予感からの防衛機能なのだろうか。
鑑賞者の感受性が下がり続け、製作者の提供する自然に満足してしまえば、わざわざ外に出向いて自然の中にありたいと考えることすらしなくなる世界が来ると言うのだろうか。
森の中に分け入る感覚や、突然開ける光景、肌に張り付く湿気や、時折吹き抜ける微風、そういったもの全てが作品たちに取って代わられる時代が近いと言うのだろうか。
もっと原初のものを感じたいという探求のベクトルが、次第に方向を変えられ、アクセスしやすい造られたものへと誘導されてゆく。要するに現物を観に行きたいという欲求が、戒厳令の如き行動制限により抑圧され、その捌け口にデジタルの作品群が与えられ、それに心酔してしまうような世界がやってくるのか?
実際のところこの考察は恐ろしいほどにリアルだ。原型たる自然の体験がなければ、デジタルの自然に回帰する以外の選択肢を思い浮かべられなくなる。私たちの2代ものちの世代には、それが当たり前になるような悪寒を感ぜずにはいられない。
VRの体験がより安全で快適を目指せば目指すほどに、危険を伴う美しさから人は隔離されてゆくのかもしれない。

伝えたい思いというものは、往々にしてしごくシンプルなものだ。好き(理由を考えるまでもなく好ましいという直感に近い反応)・嫌い(そんなに好きではない程度の意味)、に多くは大別される。主体は自分である。自分にとって好ましいか否かが、他人に理解してほしい思いの本質であるということだ。この願望には一体どういう心理が働いているのだろうか?
1つに他者からの同調による自意識の強化、2つに他者と共有の意識を持っていると実感するため(孤独の回避)等が考えられる。これは人類生誕から抱いてきた永い願望・理解されない宿命といった言葉に表されるのではないだろうか。
人というものは現状をやがて与えられるであろう褒美と引き換えに我慢できるものだ。
何故現状が耐え難いのかといえば、理想の状況ー思い描いている近未来とかけ離れて思えるからだ。私たちは少なくとも近未来に理想を描きつつ生きている。その規模は個々人の想像力によるものだが、人のネガティブな傾向はそれがお預けにされた時に、何らかの障害により実現できないと感じた時に、未来への絶望〜障害への怒りへとすぐさま変質する。そうさせないためのご褒美である。
そしてこれら意識が共有されれば、我慢強くみえる振舞う集団が形成されることになる。
ノウハウ本にこういった悪循環から抜け出すために、日々の事ごとの小さな達成=成功の積み重ねが必要である、とする方法を紹介するものも多い。成功に慣れさせることで、困難さへのハードルを下げさせ、現状を冷静に観察し、果たして現在の目標・ご褒美をもらう事というものが忍耐にたるものであるのか?プレゼントの中身を透視する能力を鍛えようと言わんばかりのものも多い。
しかし問題本来の問題は、その実現したい気持ちの出自にあると感じられる。願望は常に個人的な出自を持つ。たとえ外観が似ていようとも、私の目標は私のためだけの目標であるのだ。ここが達成できたと感じられる状態に常にあれば、私たちはすなわち上の次元に足を踏み入れたことになるのだろう。

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