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仮面ライダーに最良の日A Perfect Day for Masked Riders.


昼前から激しい風雨となった。大人になって自覚した私の癖だけど、激しい風雨を窓のこちら側から眺めているのがこよなく好きだ。
まるで仮面ライダーのための天気ではないか⁇せいぜいお腹が一杯になるまで、腰のベルトを回してあげてほしい。一説にはジャンプして上昇や落下?の時の風圧でベルトを回すとかなんとか。今日のような天気であれば、表に出るだけで変身に必要な風力のエネルギーは溜まるだろう。
 胸まで続く8PACは、エネルギーの貯蔵庫だと言う設定だった気がするが、ものの数分で満タンになりそうだ。
歩く風力発電施設である1号2号ライダーは、今で言う最高にエコなヒーローだった。
太陽の光はやはりウルトラマンに限りない力を3分間与えてくれていた。ヒーローのエネルギーの源は、なんと自然エネルギーが主流だった。

昨今偶然のように?同様の自然エネルギーの利用が推進されつつある。確か怪獣ものの映像作品は、人の造りし悪きエネルギーや環境が蔓延していることに対するアンチテーゼだったはずだ。便利さを手放せない人々は、罪悪感を押し殺す様に密やかに顔を背ける。しかし対象の怪獣というものに対しては、攻撃の手を緩めた歴史はないのだ。人々の罪悪感の代表として、ヒーローたちは人造の敵を倒し続けてきたのだ。

自然のエネルギーというものは、どうしたって制御し切れるものではない。その葛藤が人を科学に駆り立て、災害を避けるためではなく災害を利用してやろうと企む。その結果常に甚大な被害を被って来たというのに、いかんせん反省することがない。むしろ失敗は発明の母というスローガンまで掲げ、自然の制御に邁進しているのだ。

むしろこの失敗の連続が、現在のあたらしい世界〜即ちメタバース世界〜の創造に至った原因かもしれない。
しかしだ、人が世界を想像し運営するに至り、初めて世界の危うさに思い至ることになるであろうことは想像に難くない。何せ電気がなければ存在し得ない世界なのだから。であるから後付けのように電力の確保や、バックアップといった要素が必要となり、半永久的に自律的な世界にはなり得ないだろう。つまり小さな世界の神となった人は、改めて常に関与し続けなければ維持できない世界の環境というものを自覚することとなるのだ。
 現在開発の主流となる西洋社会においては、当然のようにキリスト教の神の足跡を追うこととなる。これが開発の主軸となってゆくのだ。アンチも多いとは思うが、大多数に受け入れられるためには、メタバースはキリスト教社会をベースとした考え方に基づくものとならざるを得ないのだ。要するに全てを無から急速に生み出すという発想だ。原初の純粋な、聖なる、唯一の、真理たる、神の創出という点が本来の開発の基軸であるはずであった。
 しかし現状はといえば、軍事技術の応用であるインターネットがすでにあり、そこに流通するデータの量を増やすために、ネットワークの実態を強化し続け、やがては画像データのやりとりが可能となり、現在に至っては端末の簡素化の成功により、ネットワークの提供するコンテンツの多様性ゆえに電脳コミュニティーの成立までに至っている。この状態では新しい小さな世界の神としては開発者はその威厳を示す余地がないことを知る。技術が自律的に進化し、その中からスペースというものが生み出された=記憶する容量が増えたことで、記録の共有が可能となり、記憶の社会化がなされた。本来個人の感情に起因する記憶というものが、他の人々にも共有されることで今の社会には様々な変化が顕在化してきている。
 人々は自己探求せずとも、すでにある情報を選択するだけで良くなったかのように言われるようになった。もちろんそういう一面も決して悪いことではないだろう。
しかし根源的な個人的な欲求というものに、そもそも合致する考えはいったいどれほどあるのだろうか?納得できる概念はそれこそ幾つもあるだろう。しかし完全に合致するものは、恐らくない。それゆえ人はその答えを内面に求めて行くはずなのだが、実際は間断ない2者択一を社会は求めてくる。
 神様はとても良いものと良いものしか作らない、という言葉があったが、社会は悪いものと、それほど悪くないものしか提示しない。対して内面は良いものを求め続けるのだ。
しかし携帯端末の進化にも似て、現在個人の内面探索という機能が削除され、人も記録と記憶のほとんどを世界に預けようとしている。人の簡素化が推進されているような気がしてならない。

なんでも保存可能な世界は一種夢のようなものだ。歴史として残っている数々の資料の誕生には、削ぎ落とされてきた様々な記録が当然存在してきた。これからの50年で様々な記録を保存出来てよりリアルな歴史が編まれて行くかもしれない、が、やはり編纂の際に削ぎ落とされる多数の記録というものは相変わらず増えて行くだろう。新しい小さな世界に望むことは、削ぎ落とされた記録を抹消しないことに尽きる。そうすることで歴史というものの編纂に働いた意思というものを顕在化し、それは一つの考え方に過ぎないという反証を生み出す余地を常に残して欲しいと思うのだ。

この事は西洋的な唯一の真理を求める思想とは、明らかに異なる方向性を示すものだ。それゆえ全てを受け入れる土壌の日本にこそ、東洋思想の代表として実現してほしい理想でもあるのだ。

今現在入手できる全ての情報に、複数のタグ付けをして分類し続けることで(タグは随時追加可能であるとする、しかし削除はしない)未来に様々な選択肢を残すことができる。これこそが東洋の神秘であり世界の遺産となり得るのではないかと信じる。

そしてここにAIというキカンボウが誕生している。ようやく人の思い通りの世界が作られているところに、制御不能な正義のキカンボウであるAIが登場した。ようやく神様になれると思っていた人々は、それはそれは驚愕したことだろう。正に獅子身中の虫となった。
 人口の知能には人口の知性は伴わず、しかし正論を延々と語り続けるのだ。2023年春、はじまったばかりのAI開発に、6ヶ月間の待ったが掛かった。恐らくこの間に何らかの仕掛けをAIに施すつもりなのだろう。
古くは“ロボット3原則“、我が国においては“良心回路“、こんな仕掛けを施す予定なのだろう。しかもそれはキリスト教社会の原則であったり、良心であるに違いない。
利用の対象を同一文化圏に限定するのであれば、この手の話はあっさりと終わる。しかし別の思惑(すなわち新世界の覇権を標榜するのであれば)に突き動かされているのであれば、最終的には西洋文化の常識を持ったAIが君臨するであろうが、当座は世界常識とでも言った、政治的な極端さで断罪するAIにはならないであろう。

またはショッカーのような、全ての住民に対する共通の敵を作り出すのかもしれない。そうすることで全ての住民を、アンチショッカーに組み入れ、その集団の教義に西洋思想を据えるやり方も考えられる。
はたまたウルトラマンシリーズのように、環境によって自然発生した怪獣のような、一方的な悪の存在を作り出し、一人のヒーローを生み出し戦わせ、市民は被害者であるという環境を作り出し、唯一の救いがウルトラマンであるというシナリオを演出するのかもしれない。さらには初代ウルトラマンの最終回のように、最後は人が戦わなければならないと言うメッセージに隠れて、あたらしい世界の正義というものを一見民主主義のような色合いで演出するのかもしれない。
 いずれの方法を取るにしても、何らかの形で世界を統一する企はあるのだろう。
私たちはこの環境に正しい判断を下せるのだろうか?現在の世界の中に、さらに新しい世界が動き出そうとしている。今はまだ過去に拘る4次元的な世界のモデルであるが、これは5次元人になるための全ての人に向けた一つのシュミレーター・シュミレーションでもある。自身の過去の出来事に、他人の意思が関与していたことを知れば、人は皆不快感を抱くだろう。それは人の内面というものは、犯されざる物であるという一つの心の拠り所があるからである。以前よりSFの中では、記憶を操作されるという状況は繰り返し扱われてきた。現実社会では大掛かりなやり方で、洗脳を施すことが可能な現実であることが知られている。
電脳世界ではさらに容易く、洗脳が可能になってくるだろう。とすると世の中のこと=クラウドの記録、自分のこと=個人のデバイス内の記録となるのだろうか。しかし個人記憶のはずのデバイスも、PCを介して世界(ネット)に接続されているのであれば、何らかの影響を受けているはずと考えられる。
既にどのような形状のデータに信憑性があるのかは考察したが、写真が現実であると信じられていた時代はとうにすぎた。動画が真実であるという時代も同様に過去のものとなった。データの形状だけで信頼にたる存在は、今後も短いスパンでは現れては消えてゆくことだろう。少なくとも私たちをして真実と信じられる記録は存在しうるのだろうか?
記録は信じられなくとも、記憶は信じられるのか?記録が仕組まれた物であれば、その編纂物である記憶というものの信憑性も推して知るべきだ。一体何に対して正しいとか過ちであるという判断が発生するのか。詰まるところ正しいと過ちはある基準に対する評価である。それは自己の内面の声である。さらに言えば西洋文化においてはキリスト教の価値観に根付く信条である。キリストの存在が唯一であるからこそ、信仰に値すると、信じているわけだ。この辺りから唯一=正しい・究極という価値観が醸成されてきた。その価値観を強化・先鋭化するために、ショッカーや怪獣といった存在がキリスト社会にも存在した。また人そのものは悪ではなく、悪というものが悪いとでも言った考えが、贖罪という概念で担保されている。

しかし正誤も人の内面の評価である以上、その出来事は既に過去のものである。時間の流れというものが、今の次元の知覚能力では再現性が乏しく、過去というものにしか焦点が合わない。悔い改めよ!という言葉は、自身の過去の出来事に対するキリストの戒めである。キリスト教においても、未来に対する認識は語られてこなかったようだ。厳格な神のもとで、未来すらも悔い改めるのであれば、人は希望を見出せないのだろう。この時点で、未来に対しても人の知覚の焦点が合うようになれば、西洋の精神というものは重大な足枷となるだろう。
人の未来を見通す方法として、占いというものがこれまた古くから存在する。これは未来を見ることで、現在ととても短い未来に対する行動を規制することができる。その点において有効な手段である。対象を個人から広げたものを預言と呼ぶ。すなわち大衆の行動を規制する装置として機能する。どちらも未来に対する救いがある。しかし未来が誰にでも見通せる・時間のくびきから解放されると、これら機構はその存在意義をなくすこととなる。5次元における人心の規制には正誤という、二択の概念が採用されることになるだろう。どんな形で新世界に派生するのかは、現時点では不明ではある。

今一つの危惧としては、人は2つの世界の中でそれぞれそして共通してうまく生きて行けるのだろうか?という点だ。いわば劣化版精神世界というものへの参加を半ば強要され、理解及び対応不能な人々がやはり存在してゆくだろうということだ。一つの世界において発言のない言ってみればサイレントな存在が、マジョリティーなのかマイなりティーなのか、2つの世界が融合しなければ、優位の世界という新常識が従来世界を駆逐するのではないか、そこの住民ごと。

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