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見えない場所

以前自分の体の部位で、絶対に見えない場所のことを考えた。
これは山登りに例えると、長年の疑問か解けた。山に登っていて、その山を見られる場所は?と言えば見ている場所の先と、今まで登ってきた場所である。つまり、今いる場所は見られないのである。
ではここで“見る“と言う行為には、どんな目的があるのだろう?と改めて考えてみる。
登山の例で更に考えれば、今までの軌跡を振り返り、これからの進む気持ちを掻き立てようと言う心理的な、自身に対する、作戦のような一面がある。この場合山頂に立つと言う目的の為に、やる気を維持するために自身の中のネガティブな感情をコントロールする訳だ。
過去と未来を見渡して、目標のために己を奮い立たせる、とも言い得る。
一見だ、視覚と言う感覚だけでは、この作戦は通用しないのではないかと思う。では、見るという行為の視覚以外のファクターは一体何なのだろうか?一時の満足感から、脳内物質を大いに分泌させるためではないか?とも言われるかもしれない。この真偽は生理学的に実験して貰えば判明すると思う。
しかし、身体的な機能以外の別のところに繋がる感覚、そう言った動きも感じられると言うことも、否定出来ない。

物の見方をひっくり返せば、現在の認識は過去と未来を感じる器官では、捉えることができないと言えるのではないだろうか。つまり使う器官が幾つかあって、適したそれで私たちは事象をその都度捉えているという事だ。

顔の話をするなら、私が今いるところが頭である故、自分の頭を自分の目で見ることは出来ないわけだ。現在(2023年10月1日に)観ている動画で、限りなく自己を手放してゆくと、感覚が無限に広がってゆくと言う物がある。コレは一見矛盾する要素を孕んでいると思える。つまり認識をする物として感じられている“自己“を放棄してゆくと、自身の感覚の広がりを又“自己“が感知していると言う矛盾である。
これは自己には複数の有り様があるということを意味しているのだろうか?またはそもそも事故と言うものに対する私たちのイメージが、単独のものであるはずという固定観念に囚われていることの現れなのだろうか?

どちらでもありどちらでもない。こういう禅問答の如き結論がぼんやり浮かぶ。何故ぼんやりかと言えば、立ち位置がはっきりしないため判断が混沌としているためだ。と言うことは私たちははっきりとした答えを常に求め、そこを足掛かりにして考えを進めようと言う傾向が認められると言うことだ。このことは傾向であり良し悪しの対象ではない。しかし往々にして足掛かりが見当たらず、各種資料をあさりまくる事となる。そして疲労の果てに様々な目的を放棄してしまうのだ。しかし時に当時の探究を気まぐれに再開する事もある。この辺りが人の面白い特性ではある。

思えばアリのパトスの発見時に、複数の視点と言うものが矛盾なく存在することを既に知ったにもかかわらず、自身は未だに存在のことを突き詰めずにいる。これも現在が単に停滞している状態であると言うことなのか、はたまた思考に疲れて混乱している時期が長らく続いているだけなのか?自身のことに関して、複数の視点を得辛い状況が(つまり認識をさせまいとする意思が存在すること)なせる技なのだろうか。

そもそも私の時代はアイデンティティーの一致という状態が、社会人たる≒大人たる条件の様に言われていた。これは単にペルソナの固着・一定・固定を社会というものが求めていることの暗喩であったと感じている。特定の個人はその特定という要素をコロコロ変えてはいけないと、どういう人として社会に参画するかをまずは選べ、そしてそれを守れといった同調圧力めいた意思を私は不快に思っていた。それゆえなのか分裂したままの自己という状態を当たり前の様に容認してきた。
結果的に周囲に対して私は、独善的な存在ではなかったと願いたい。
周囲からは私に対して、恐らくは様々な評価はあるであろうが、自身としては様々な自己を表出させてきたと信じているのだ。

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