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僕らの次元上昇

 3次元的認識とは?

どうも人の認識は、下位互換であるようです。
3次元的な存在である(あった?)私たちは、2次元的認識のパターンに馴染んでいる。情報媒体が2次元的な物ばかりな事は、身近に溢れている書籍・画像・動画を見ても明らかであろう。多少の例外は動画の普及である。ここ5年程度で人が動画を見る機会が急に増えた。動画には時間の流れという事象が内包されている。この情報に普段から触れていれば、動画の与えた影響がわかってくると思われる。
人の意識の進化には次の段階、つまり3次元的な情報を認識する4次元的な立場にあることを認識する必要がある、と思われる。
4次元とは、または多次元、上位の次元というものは、どのようなものなのだろうか?
1次元が点、2次元が面、3次元が立体と言う所までは、散々言われていたのでお分かりのことと思う。考えてみればこの言葉も、人の理解の深度を表すための方便だったのだろうと思われる。
ただしこの考え方が普及しているので、ひとまずこのまま論考を続けてみよう。
認識が自己を社会に投影させ、その反射像が客観的自己意識となる。人は社会的(集団帰属する)存在であるため、投影先次第で物の考え方も一斉に変わるのだ。
では4次元とは?個人的には時間軸を、立体に加えた認識であると考えている。つまり時間の流れ(過去〜未来)の中を動き回って思考することが可能になった、3次元の現在の投影だけを真実と考えなくなってきている、と言う事実があるのだろう。
手に入れられないもの、触れない物も動画を見ていると本物であると認識するようになって、現在という時間の流れでは合間見えることが不可能な光景・姿でも今までの脳内の記憶から、肉体の外部でデバイスの中で流れる動画により視聴が可能となってきている。そして動画の対象が、自分のよく知るものや人であった場合、自己認証が容易い。つまり本物であるとすぐに確認できる、と言う事だ。
どうもこう言った世の中の要請で、情報の多次元化が進み、それに連れて人の認識が2次元一辺倒から、ほぼ3次元に移行しつつある。

人の正しさを決める情報は、口伝・文書・絵画から写真という信頼性の高いメディアに移行。その後50年以上この状況が続き、PC技術の向上と公開により、文書・写真は加工が可能であるという認識が普及した。
そこで次に求められたメディアの形態が動画というものになった。振り返ればTVで最初は動画というものがVTRという形式で広められた。写真家。カメラマンとメディアの担い手たちは専門家という括りで扱われてきた。
然るに現在では幼児でも撮影が可能なデバイスと、それを無償で公開できるプラットホームが存在している。
CD・DVD・BRDにおいても保存という役割以外の意義が低下し続けている。個体の商品価値はどんどん下がり、代わってその内容に価値が高まってきている。2022年時点でのデジタル技術の進化により、試聴に関してはストリーミング放送のおかげで、個体のメディアが不要になり、保存に関してもクラウドサービスが浸透し、やはり大袈裟なHDを自宅に置く必要も無くなった。

この流れが偶然なのか必然なのか、意図的だったのかは不明だが、私たちを取り巻く情報のプラットホームは明らかに、紙媒体からデジタルへと移行したと言える。

今までの認識の流れを振り返ってみると、3次元・4次元的認識やさらに高次元の認識の姿を垣間見ることができるかもしれない。
こう言った環境内で、人の認識はどのように変わって行くのだろうか。
そもそも認識とはどういうものなのだろうか?認識>意識と仮定して、意識というものは自己から発信し、対象に投影し、その結果を認識することでなされる、自己存在の再認識・環境に最適化された不完全な自己認識であるとする。
この例は単純に鏡を前にした人の状態で説明できる。自分と認識している肉体が、鏡(即ち姿=映像を左右逆に表示(実際は反射)するものであるという認識のもと)に映る。その姿が自分であると認識している。求めているのはどのように他人から見えるのかの確認である。
随分昔に鏡の不思議について文を書いたことがあるが、視覚を持つ人も生き物も、自分自身の姿をその目で見ることができない、特に顔は見られない。ただ鏡の正確さを信じているので、そこに移った顔が自分であると漸く認識できるということだ。
何ともまどろっこしいが、一旦他者に投影し、その結果を以て自己を認識するというパターンは姿を写せるという事実を以て確立された。
水鏡・手鏡・姿見は極めて現在その一瞬のためのものだ。そしてその姿を正確に写しとれる写真というものは、少し前の自分の姿である。
鏡と同じ理屈で、それは自分であると信じられる。
人は他者に対するものだけでなく、自分に対しても姿形という情報がなければ不安を覚える存在なのだ。

これで認識の最初の層である意識のことは、だいぶんイメージできたものと思う。それでは認識というものを定義してみよう。認識とは自己及び他者を意識下に置く精神的行為である。もっとも自己及び他者を物理的に支配することは、結局精神を支配することとなる、いや対象の嗜好に迎合することかもしれない。他人を支配するためには、肉体を媒介とした行為により、精神に触れその嗜好に合わせ操ることが必要だ。求めているものを与えることで、対象の意志を鈍らせこちらの意図通りに肉体を操るとも言い換えられるであろう。
少し馴染みがないとは思うが、他者を操るという言葉の目的は、他者にこちらの考え通りの行動を取らせると言い換えられ、またそれが求めている行為・結果なのである。この場合対象がどんなことを考えているのかは、基本的に問題外のことである。こちらの望む行動を起こしさえすれば、目的は達成されるという立場での観察結果なのだから。

精神的にも肉体的にも、働きかける対象が意識であることには変わりない。認識は主体たる自己のためになされる行為である。その目的は様々であるが最終的には、自己の願望の実現に帰結する。
3次元の認識とは立体の形態と、それに付随する時間の流れを認めることである。認識とは正確さを求めるので、それまでは社会的に真偽を揶揄されてきた映像(動画)は、意識を投影する対象たり得なかった。
しかし現在では動画がデバイス即ち新しい世界=電脳世界、の中であふれ返りその環境下で無条件に真実である・正確であるという社会的認知が著しく向上してきたために、人の意識も変わってきたのだろうと推察される。

分解及び再構築のプロセスに脳が慣れた?
今までの感覚では、事物は今ここにあるものだけと言う感覚に支配され、この手にあるから本物である、真実であるという精神的帰結回路が機能していた。しかしこれからの時代は、現物主義から(上のCD・DVDなどの持っていた価値観がメディア自体のシフトにより、無価値になりつつあると言う現象に類似)その中にその構成に秘められていた過程とでも言ったものを志向する主義に移り変わりつつある。

人も生き物も演技する存在であることを、再度考えてほしい。それら存在の動画の中に、正しいもの・真実を嗅ぎ分ける感覚・感性なしには、今の認識の進化は説明がつかない。

一つにモデルがあり、これを模倣することで似たような効果を得られるという方法がある。読書が(2次元的発想)が主流の時代においても、読書中の没入感の中で、人は脳内で直接演技したり、演技を監督したり、閲覧する自身を創造したりと様々な情動的な作業をこなしてきた。
 今や我らは等しく4次元人となったのだ。然るにその要因には常識の浸透と、技術の平坦化浸透を待たなければならなかった。勿論今までも既存メディアである文章や静止画、更には映画などでもある境地≒悟りに至った人たちはいた。しかし今の状態は多くの人を一気に悟りの境地にまで引き上げたのだ。この点が今の時代の画期的な出来事であったと思う。

 さて次の次元認識はメタバース的な世界で実現すると予想すると、存在に時間という経過という要素を認識できる様になり、その次は意思による移動を認識できるいわば上位意識に根ざしている実感を得る。そうなると5次元人になる。
メタバースは知識の蓄積と活用の場とも言えると思う。木の根のが広がれる土壌としてのメタバースであり、地上の存在と共存して行ける場所としての、接点としてのメタバースとなるのだろう。
 根っこというのは個人的な世界であり、地上というのは能動的な共有空間、世界である。土壌も今の世界と同じく同一文化の大陸の中ではあるが、共有されている知識の蓄積から出来ている。
 しかし地上世界は分断されていない。空はどこでも見えるからだ。この空と大地が全て続いていれば、ある意味本当に全ての常識が統一される事となる。この事はまさに多様性の否定となる。となると宗教的反射は第一義の物から、次点の意義へと位置を変えてゆく。代わりに共通の常識と言うものが浮かび上がる。それ故に民族の平均化が起こる。これが理想の未来なのか?と言われれば、素直に頷きづらい。
私の意識はやはり日本の常識に根ざしているからだ。

 未来の皆んなはどの様な世界を望むのだろうか?

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