小説 (仮)被災者になるということ~能登半島地震より 第13話

1月13日


朝、8時ごろ父がやってきて、38度の熱があると言った。
医師が保健室にくるのは9時からなので、それまで待たなくてはいけなかった。
昨日の夜、父のところに母から連絡があり、7時間かかって、スポーツセンターについたそうだ。
今でも7時間かかるとは思わなかった。
でも無事についてよかった。

放送で食料事情が悪くなっていると説明があった。
朝ご飯は長期保存のお菓子と水だった。
お菓子は乳酸菌の入ったクリームをサンドしてあるビスケットだ。
ちょっと酸っぱいのであまり好きではない。
でも朝ご飯として食べられなくはない。

夫に家から体温計を持ってきてもらった。
私の熱は37.7度まで下がっていたが、また上がりそうな気配があった。

9時になって、父と一緒に私も保健室に行った。
私も検査をすることになり、検査結果を待った。
すると父はコロナ陽性だった。
私はまた陰性だったが、みなし陽性とするということで
二人で隔離部屋に行くことになった。

隔離部屋は3階の家庭科室にあった。
ランチルームのこたつ布団などを父と二人で3階に運んだ。
他の荷物は赤十字の看護師さんが手伝ってくれた。
私たちを入れて9人いた。
介護施設に勤めているKさんも来ていた。
通路と間隔の確保を考えると、これ以上は入れなさそうだった。
私たちは窓の近くの場所になった。
この歳になって父と添い寝するようなことになるとは思わなかった。
体はくっつかないが、寝返りをうつのは難しい狭さだった。
ランチルームとそう変わりない。

部屋に入ると、赤十字の看護師さんからトイレの説明を受けた。
家庭科準備室にはテントとラップポンという機械が置いてあった。
これは簡易トイレなのだが、ビニールはセットされていて、
凝固剤を入れてから排せつをし、ボタンを押すと90秒かけてビニールを
熱接着し、袋の切断をしてくれる便利な機械だった。
大きなごみ袋に入れるだけでよかった。
もっとたくさん設置してほしいくらいだった。
祖母がいる間にこれが使えたらどんなに衛生的だったろう。
おばちゃんがハイテクな機械よねーと言った。
ハイテクという言葉を聞いたのが久しぶりで、なんだか温かい気持ちになった。

先に来ていた人によると、他にも隔離部屋があり、
インフルエンザの部屋もあるということだった。
コロナが治ったらインフルにも注意しなくてはいけないのだろう。

奥のおじちゃんのラジオからは年末に亡くなった八代亜紀の曲が流れていた。
八代亜紀の声は低音が良く、心にしみる。
今のような状況でも拒否反応なく聞けるというのは、歌が上手いからだろう。

昼ご飯はカップ麺が配られた。
隔離部屋には電気ポットが一つあり、食べる人が順番にお湯を入れていた。
9人に対して電気ポット一つの比率は、他に比べるとこれ以上ない待遇だった。
他は50人に対して電気ポット一つといってもいいくらいだ。
カップ麺のときは、電気ポットが足りないから魔法瓶タイプのポットが設置されるのだ。
熱は38.5度まで上がってきた。
他に食べるものがないので、仕方なくカップ麺を食べた。
スープを飲めば水分補給にもなるだろう。
寒くて動けず、のどはますます痛くなり、せきも出始めた。

夫にメールでペットボトルの経口補水液を頼んだ。
経口補水液も家に常備している。
赤十字の人に渡してもらい、隔離部屋に持ってきてもらった。
隔離部屋では一般の人と接触はできない。
体温計は保健室にあるだけで、個人で用意するしかなかった。
経口補水液を飲み、夜ご飯は食べなかった。

窓の近くだったので、夜になると冷えてきた。
汗がひどく、夜中にトイレ用テントでシャツを替えた。
もっと頻繁に替えたいのだが、もうシャツを持っていない。
いつものように養生することができないのも、私にはつらかった。

変更履歴
2024/4/18
朝ご飯について修正しました。

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