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ガダマー ☆138

最近、歴史の事ばかり考えていたが、いつの間にか気候も秋めいて来た。エアコンも一昨日から止めたままである。

歴史シリーズは今日で一旦区切っておこうかな?

さて、20世紀を代表する哲学者、ガダマー(1900年~2002年)は、

「人間は歴史的な存在」だと言った。

これは、まずそうなのだろう。釈迦のような優れた人であろうとも、その生きた時代と地域性からは逃れられないし、もし絶海の孤島で1人で暮らしている人がいたとしても、そこへ行き着く前に暮らしていた社会の影響を受けて生活している筈だ。

ガダマーはドイツ人で、20世紀をまるまる生きていたから、第一次大戦も第二次大戦も経験しており、ナチス・ドイツの興亡も、渦中でよく見ていたのだろう。

彼の考え方には少なからず共感を覚えたので、ちょっと書いておこう。

ガダマーは実証主義的な歴史学を批判する。中立、公正な立場で歴史を客観的に語る事は、一見、良い事のように思えるが、そもそも、客観的に歴史を語るなんて不可能なのだという。

だって「人間は歴史的な存在」なのだから。

もっと言えば、「歴史的客観主義は統計学に似ている」ともいう。統計で数字にして見せると、その主張はとても客観的で公正に見えるのだが、それは客観性を装っているだけで、この手法は今もよく広告に使われている。悪意を持つ者なら詐術の道具として使用する事も可能なのだ。

だからガダマーに言わせると、あるテクストを前にした時(それは聖書でも古文書でも、ボディランゲージでも絵画や映画でも良い)、それが制作された時代背景や地域性を考慮する事に拘泥する必要はないのである。(いやいや、私は自然とそのようにしてしまうのだが、それはダメなのだそうな)

何故なら、そんな事は誰にだって出来るし、面白くないからだ(私でなくガダマー説ですよ)。

前述したように、人はその歴史や地域性から逃れられない存在なのだから、例えば300年前のテクストを前にして自分を300年前にタイムスリップするなんて不可能なのだ。

むしろそれを超えて、自分の先入見を足場にしてテクストを吟味する事にこそ価値があるのだ。

つまり、テクストは情報に過ぎない、テクストよりも今生きている自分がどのように受けとめるのか、この方にこそ価値があると言いたいようだ。

テクスト<受け手(自分)

さすればテクストは受け手に何かを語りかけてくれる、そこで感じたモノから、新しい歴史を創造するべきなのである。

伝統なしに真の創造はなく、創造なしに真の伝統はない。

これが、ガダマーの言う解釈学的循環であり、生きていることで必然的に生じるものだという。

なるほど、これは1つの考え方であり、正しいのかも知れない。

ガダマーはハイデガーに強い影響を受けたようで、ハイデガーこそもっとも有名なドイツの哲学者だが、

1933年ヒトラーが帝国首相になると、大学総長に就任し、ナチに入党して「ハイル、ヒトラー!」と叫んでいた。

ただこの頃のナチスは民主主義によって生まれていたし、政策も素晴らしく公共事業や福祉もしっかりやっていた。後にあんな風になるとはハイデガーも誰も予想出来なかっただろう。ナチス・ドイツとは国民社会主義ドイツ労働者党の事なのだから。

ハイデガーは1年と少しくらいで学長を辞任している、だんだんナチスが手に負えない存在である事に気が付いたのだろうか?この事はよく分からない。

ナチス党員であった事は、ずっとハイデガーを批判する材料となっているが、渦中にいた人にとって、それを避ける事が果たして出来たのだろうか?

ハイデガーに限らず、人間は、いや、すべての生きとし生けるモノは、放り込まれた環境に対してアフォーダンスする以外ないのである。

アサガオのツルは、障害物を避けたり、或いはそれを利用して絡みついて行くしかないではないか?悪しきものに絡みついてしまったとて、どうしてそれを批難できようか?それは生き物の性であり、本能なのだから、それ以外の選択肢はなかったのではあるまいか?

と、私は思うのである。様々な歴史を眺める時にも、アフォーダンスの連続であるように思える局面が多いのである。

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