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実は人間じゃない、んだ。

久しぶりに小さい私が現れた。
いつもより大きな声で泣きわめいてたんだよね。

ちょうど、がんばろう。目を背けず立ち向かおう。
私が頑張れば、我慢すれば、この大きな問題を解決できるだろう
と考えていたからなのかもしれない。

もう無理だ。
やめたい。
逃げたい。

そう思った。

苦しくて、悲しくて、さみしくて
ぐちゃぐちゃになった

いなくなりたい、と思った。
でもそんな勇気は持っていないみたい。

私はそんな時、もっと自分が嫌いになる。

”生”が喜ばれる世界で
自らの”生”を全うすることが”生”の意味だとされ、
不意に”死”により”生”を謳歌できなかった人がいるんだから、
今、息のある者がそれを放棄するのはあたかも極悪人かのように感じられる
(”死”が罪というわけではない)

”生”を喜べない自分がとっても嫌になる

それと同時に、
結局”生”から逃れる勇気がない自分の弱さを痛感する

あぁ、私って消極的に生きてるんだなぁ
消去法。
”生”と”死”の選択肢で消去法で残った”生”で今も生きる。


消極的に生きていても、日々の幸せはそこにある。

ほら、”生”を選択したからこの幸せにも出会えたでしょう

そんな声も聞こえてくるんだ。
でもさ、そんなのわかんないじゃん。

たしかに、幸せには出会えた。
でも同時に”生”の苦しみにも出会うだろう。

もしかしたら、”生”の苦しみから解放された時、
その状態は幸せなのかもしれない。


自分は消極的に生きている。
そう考えてる時に、私は受け取れない言葉がある。

生きててくれてありがとう。

私は人間の仮面をかぶった棒人間。
みんなをだましてる。
その言葉は、「人間でいてくれてありがとう」って聞こえる。

でも私は棒人間なの。
だましている罪悪感と、

誰も私が棒人間だということに気付いてくれない、というか、、、
これからも人間の仮面をかぶり続けなさい。
棒人間の私ではなく、人間のフリをしている私に価値があるのだから。

そんな風に受け取っちゃうんだ。
ゆがんだろうけど、これが今の私。


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