蝉とわたしとヒトの生き方

蝉があまり好きではない。
落ちてると生きてるか死んでるかよくわからないし。狭めの道に落ちていてうわああと思いながらそっと近くを通った瞬間、ジジジジジと覚醒するのは本当にどうかと思う。ドッキリでも仕掛けたいのだろうか。生命力を見せつけたいなら他のところでどうぞ。
そもそも死んでたとしてもあのサイズ感の虫は無理、生理的に受け入れられない。昔は虫取り網とカゴと携え、父親に連れられ蝉取りに行ったのになあ。いや確かあの当時も手づかみは無理だったか。

そういえば土から顔を出した蝉の幼虫を捕まえてきて羽化を観察したこともあった。茶色い背中がぱきゃっと割れて、中から白くて緑っぽくて透明感のある、なんとも綺麗な成虫が出てくる様子を未だ容易に思い出せる。翌朝には外にいる蝉と何ら変わらない様子になり、時折部屋を飛び回るので母親が早く外に出せと急かしていた。ごめんね、でも父さんの発案だしさあ…
あのブイブイ飛び回ってミンミンシャワシャワうるさいやつらが、数日前まではみんなあんなに綺麗で繊細なかたちをしていたという不思議。わたしの一部はあの体験でできている。

今朝、蝉の声があまりにうるさいので不審に思っていたら、なんと網戸の外側に滞在中。もうちょっといい場所あるでしょうに。少し足を伸ばせば公園だよ、木とかいっぱいあるよ、ひとっ飛びすれば多分すぐよ。
どうせ触れるわけでもないのでそのまま放置する。きみも必死なのはわかってるつもりだから、どうぞ好きに鳴いてください。

「DNAの乗り物」という観点に基づけば、生物としてのあり方は蝉のほうが人間より正しいと思う。そしてわたしはこの考え方が結構好き。ヒトがもはやそれに囚われず、多様性を持って生きられることの尊さやすばらしさを実感できるから。生命の至上命令に従わなくてもいいなんてすごくないですか。わたしはすごいと思う。
今のところ結婚願望も無ければ子どもも特に欲しくない、生物としては不出来なわたしをも受け止める余地を持つ。そんな度量の深さがヒトや人間社会の魅力のひとつだと考えている。
去年か一昨年に読んで印象的だった本の一節。

われわれの心は、身体を単にDNAを育て次代に伝えるための特製の乗り物以上とみなしている。
そのために、生殖をわれわれの唯一の任務とし、われわれが住む世界に与えうる唯一の影響であるという他のすべての生物では当然のことに、われわれは納得できない。
死はなぜ進化したか:人の死と生命科学 / ウィリアム・R・クラーク著, 岡田益吉訳, 1997

しかし実際は、多くの人の自由な生き方が暗に、もしくは明らかに制限される世の中だということも事実だ。例えば結婚しない人や子どもを持たない人、LGBTQなどなど。こんなのほんの一例だが。
せっかく人間として生まれてきたのに、その最大のメリットのひとつを享受させてくれないなんて。めんどくさい世の中はどうすれば変わるのだろう。

2022/08/14

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