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「感性の危機」

初めまして、こんにちは。海介と名乗らせてもらいます。

最近思うことがありまして、文字に落とし込んでみることにしました。

「感性の危機」

分かります。どこか怪しげな新書のタイトルにありそうな、なにかと不穏なお題目ですよね。誰かしらの目を引こうとしたわけではないですが、私のいくばくかの違和感と仮説を徒然なるままに記していこうと思います。


ことの始まり

唐突も唐突ですが、私の趣味は美術館(展覧会)巡りや自然散策です。つい先日も京都に赴いて、MUCA展という展覧会と紅葉狩りをしに瑠璃光院へ訪れてきました。

聞かれてもいないのに主張させてもらいます!僕はやっぱり美術館が好きです。作品と真正面から(真横から覗き込んだりもしますが)、堂々とじっくりと相対することで、製作者から「お前は世界をどう見ているのか」/「お前は社会に対して何を訴えかけるのか?」/「お前は社会に対して何を為すのか?」というような命題を時事刻々と、時に目を背けたくなるほど鬼気と迫られているようなこともあるにせよ、問われ続けるような、そんな感覚がたまらなく心地よい気がするのです。(今回訪れたMUCA展は、現代の都市アートの展覧会だったので、そのような側面が顕著だったと思います。)

自然散策においては、眼前の、ふとすると永遠かと錯覚してしまうような、瞬間瞬間が生み出す「空間のダイナミズム」を味わう悠然とした時間が好きなのです。ここでは瑠璃光院での話になりますが、赤・黄鮮やかに色付いた葉と青々とした緑の苔が織り成す景観、風の音・動き、それを感じさせるような紅葉の葉の揺らめき、体をシンシンと凍てつかせるような空気の冷たさ、鼻に残るお香、薄い靴下越しの冷たい床、それらを特段解釈することなくその全てをそのまま、そのままに自分の内に刻み込む営み、その時間が好きなのです。

違和感 ~「観る」と「見る」~

「パシャ」、「パシャ」と美術館で幾度となくシャッターの鳴る音がする。

違和感



「果たしてこの人たちは本当に作品を鑑賞しているのだろうか。」
写真という形で作品を手持ちのスマホという機器に収めては次の作品へ、移ってもなお写真に収めてはそそくさと次の作品へ。彼らは作品を「観賞」しているのだろうか。それは単に「見る」という行いに過ぎないのではないだろうか。

瑠璃光院においても似たような光景が目に入った。眼前の「美しい」という言葉では形容し難いような景色を、わずか数千・数万ピクセルの2次元の静止画像に落とし込むことばかりに躍起になって、動的な「空間のダイナミズム」に目もくれない人たちの姿。

違和感
「あれ?何かが変だ」


この人たちは何をしに来たのだろう。眼前の景色を「観て」はいないではないか。「見て」いるのはフィルター越しのその「景色」かポーズを決めた「自分の写真」がほとんどだ。

「あぁ、なんと。。」
言葉が出ない。


*誤解を招かぬよう記しますが展覧会における作品の写真撮影は許可されていましたので、個々人の「権利」として認められています。

芸術・文化の「消費」、そして「感性の危機」

ここでひとつ、及ばすの身ながら問題提起をしてみたい。
近頃私が感じているのは、広義における芸術・文化の「消費」行動である。その原因としてはSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の波及とそれに次ぐアテンション・エコノミーの浸透ではないかと私は仮説立てている。

先に挙げた展覧会でも、一般的な観光地であっても似たような状況を目にするのは難しくないだろう。目の前の壮観な景色を脳裏に刻むよりも躍起になり、何十、何百と撮ったその写真は一体どこへと向かうのだろうか。

それら写真はおそらくSNS上に上がるのだろう。
もちろん、それ自体が悪いことだと主張するつもりはつゆほどもない。だが、一度問い直してみてほしい。あなたが求めているのは眼前の対象を「観賞」することだろうか。それとも「その場に来た自分」なのだろうか。
映画や本などでも当てはまると考えているのだが、SNSや世間で話題になっている(そのようなマーケティングがあるのも考えものだが)からという理由だけで、自分もなんとなくそれらを追体験しようと身を投じているのではなかろうか。

また別の例を挙げながら考えてみたい。これもまた最近なのだが、自分の所属する団体で泊まり込みの合宿があった。訳あって他の大多数のメンバーとは異なり自分はオンライン活動が主なため、実際に対面で会えることは多くない。
その時間の中で目にしたのはBe Realというアプリの存在感であった。このアプリは、利用者数も多く、最もメジャーなSNSアプリの一つだ。また、このアプリを簡単に説明すると、ポストSNSと称し/称され、機能のシンプルさ(過剰なフィルターなどの排除)や自然体を差別化ポイントとしてマーケティングを広げており、1日1回の投稿を「必須」にすることで、従来型SNSと比較した際に負担を減ら(筆者的には疑問)して、アプリにアクセスさせる。私なりの観点からその特徴を分析したのが以下のような点である。アプリ開発において難儀される、「ユーザーの時間をどれだけ他のアプリから奪うか。パイ取り合戦において上手く立ち振るまうか。」を「SNS疲れしないSNSを」という社会的要求上手く活用しながら、ユーザの可処分所得時間を強制的に奪うことで、アプリ使用時間が確保されるわけだ。(筆者自身ユーザではないため、認識に相違点がある可能性が大いにあるがご了承いただきたい。)


正直何が言いたいのだという感覚だろう(私が読者ならそう思う笑)。実際、私が強烈に驚嘆したのは、同期や後輩たちがBe Realからの通知が来たら、すぐさまに写真を撮ってそれをシェアする姿を何度も何度も見た。私が懸念しているのは、「流行」というものに乗ることで、気付かぬうちにこのアテンション・エコノミーの中で、(落合氏の言葉を借りるなら)「人気の奴隷」になってやいないか、ということだ。

「周りの人がそうしているから。」「SNS上で人気がある/話題であるから。」など、日常に潜んでいるどころか、日常を侵食しきったアテンション・エコノミーが自由意志を持った我々の行動を半ば強制しているようなほどの錯覚を覚える。あなたの自由意志はどこにあるのだろう。

ここで初めの問題に戻るのだが、このアテンション・エコノミーの中で自分以外の関心を引くために、博物館や映画館、文学作品などの文脈においても同様に、広義の意味において芸術・文化の「消費」行動が輪をかけて加速的に進行しているのではないかと憂慮している。
(誤解してほしくないのだが、写真に収めること自体を否定しているわけではない。実際、ヘッダーの写真も私がスマホで撮ったものである。)
しかし、しかしだ。展覧会でも、観光地でも「見ている」ことはできても、「観る」ことができなくなっている人があまりに多くないだろうか。目の前の瞬間瞬間の体験を差し置いて、写真に収めること自体にそれほど躍起になってどうするのだろうか。SNSという媒体を通じて、モノよりコトと言われながら、コトさえも「消費」されてしまっている現代なのではないだろうか。


私はここに「感性の危機」を抱く。

眼前の作品と正面から相対することなく、空間的ダイナミズムに身を預けることもなく、話題であるから、周囲もやっているからという理由で現地に赴き、自分自身にではなく、スマホという媒体に対象を刻む「消費」行動が蔓延ってしまっていると感じる。

あなたの本当の価値観はどこにあるのだろうか。
気付かぬ間にそれをSNSや周囲の人にそれを規定されてはいないだろうか。

審美眼が劣化し、同質化/同一化してはいないだろうか。
あなたにとって「美しい」とは何なのか表現できるだろうか。

他の誰でもない「あなた」は何に喜び、怒り、哀しみ、楽しみを見出すのだろうか。
そのえも言えぬ情動を「エモい」という窮屈な言葉に閉じ込めてはいないだろうか。


本来個々人が自由に持つべき我々の「感性」は、SNSという媒体を通じ画一的なものへと収斂し、今まさに同質化と劣化の危機を迎えているのではないだろうか。

私にはそれがたまらなく恐ろしい。

終わりに

ここまで徒然なるままに思うところを書き連ねてきたが、それは「自分自身の肯定では?」と指摘されても反駁できないのは確かである。

しかし、ここに違和感を覚えた自分の「感性」を自分は好んでいる。そして、どこか確からしく、共感を得るのではとも思っている。

穿った見方をしていると主張したいわけではない。かといって、大々的に弁を振るいたいわけでもない。おそらく、僭越ながらも少しばかり、この問いを社会に投げかけてみたいのだ。


「感性の危機」

それはそれはとても壮大なお題目を自分で設定してしまったのだが、ことの始まりにて記述したような自分自身の感性をこれからも大事にしていきたいし、自分の内外に鋭敏なアンテナを張って、それらを味わっていけたらと思う。


自分(あなた)は誰が規定した価値観/審美眼で行動、評価するのだろうか。
自分(あなた)は誰の人生を生きるのだろうか。

私自身である。自分で考えて、自分で選択する。

私は私を生きたい。



最後まで、読んでくださりありがとうございました!🙌

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