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浪板海岸にて ep.1

 すでに始まっている。相手を誘惑することは。でもそれを意識してはダメ。まわりくどいくらいの言葉のやりとりで少しずつ近づいていく。離れてまったく関係ない話をして、またふとしたきっかけで言葉の駆け引きがはじまって。

 あなたはちょっと変わっているから、ちょっと変わっているわたしがななめの角度から駆け引きするのか好きなのかしら。読めそうで読めない態度に、ほんとうに不安になる。わたしのことどう思っているの。でもそんなことは言わない。なんでもないよという風に言葉を交わしていく。

 気づいたかな、お風呂上りに髪につけた香り。風がふいてそっちに香りがいったかな。あなたは何も言わないのだろうと思っていたら、シャンプーって男湯と女湯一緒じゃないのかな…とか言っている。さぁどうだろうね。

 目の前に穏やかな海原。今日この日がわたしにとって大切な日だと知っているように、月はまんまるでさやさやと世界を照らしている。水面に映って、波と一緒に揺れている。風が少しつめたくなったから、もう戻ろう。

 部屋には布団が2組、すこし間を離して敷いてある。この数十センチの距離。ふたりの関係を考えると近すぎる。あなたと会うのは今日で3度目。夏までは縁もゆかりもない人だった。でも今のわたしには離れすぎている。頭の中で繰り返し練習してきたことを言う。

 くっつけてもいい? 

 あなたは優位に立つことが好きだから、それもわかっててわたしは言うの。三四郎になるかもって予想通りはぐらかされる。夏目漱石の『三四郎』の主人公が、隣に女性が寝ていても手を出さなかったことに対して、女性はいくじなしねと書置きを残した。それをここで引用するなんて卑怯な人だと思う。今夜手を出すかわからないというのでしょう。

 歯を磨く音を背にして数十センチの距離を数センチまでもっていく。わたしは駆け引きをする。この数センチ、あなたがなんとかしてください。三四郎の世界で終わらせてあげない、わたしも卑怯になってやる。これは文化的な駆け引き。わたしとあなたの世界の駆け引き。おもしろいし憎たらしいよね。

 洗面台からもどると、あなたはなんとかしてくれていた。布団の距離は0になった。旅館の大きな窓の向こうにはさっき見ていた海原がすぐそこに。カーテンはしない。波の音だけがすごくはっきり寄せて返している。あとは今なにも聞こえない。月がほんとうに明るくて、電気はひとつもついていないのに、あなたの姿がよく見える。

 こうこうの明かりの下で見る姿とはちがっている。青のグラデーションで繊細に描かれた世界。曲線がなめらかできれい。肌がきれい。目がきれい。はだけて少し見えている体も不思議と陶器みたいにきれい。全部みえていない、よく見えないことが逆にそれを際立って美しくすることがある。「月は隈なきをのみ見るものかは」という人がいた。見えないとよく感じる。

 そんな思考とうらはらに、あなたは照れ隠しの腹筋や腕立て伏せを始める。ロマンチックのかけらもない。ここまできてお預けをくらう。今すぐにでも手をとって絡めてしまいたいのに。

 あなたとの距離は数センチ。仕方なくつきあうけど、体力もなく、ほとんど突っ伏したまま何もできない。わたしひとり触れたいと思っているのかと、情けない気持ちが湧いてきたとき、あなたはもっと右手をこうして…とわたしの手をとる。あなたはわたしに触れる口実を探していたのかしら。手をとられてしまうと、照れ隠しで一生懸命腕立て伏せをしてしまう。大人の恋愛はこうではないかもしれないが、こうというものもない。

 筋トレ大会の様相を呈してきた。ロマンチックもエロスもない。誘惑や駆け引きはおしまいにして、もう寝るしかないのでしょうか。さようなら今日のわたしのエロスたち…

 身体を横に向けるとあなたが0距離にいて。あっと思う間に両腕に包み込まれた。あきらめからの抱擁。もしわかってやっているとしたら、とんでもない駆け引き上手である。あなたが我慢できなくなってそうしてくれたことを願っています。どうしてそうしたのなんてことは聞かない。これからも。そうしてくれたことをありのままうれしいという感情と一緒に覚えておくから、もういいの。うれしかった。

 波の音が生きているということをわからせてくるように迫ってくる。優しい音じゃない。荒くて気を抜いたら叩きつぶされそうな音。そこにやけに優しい月の光。はじめてあなたと夜をともにする日が、どうしてこんなに語れる情景の日だったのでしょう。誰かこの情景を整えた人がいて、この営みを仕組んだ人がいて。そんなこと考えてしまうくらい、偶然がここまで美しい夜を運んでくるなんて。

 ここに泊まると決めたとき、こんなに素晴らしい場所だなんて考えていなかった。あなたが宿を決めずに旅をするなんて言い出すから、まかせておくと大変なことになると思って、なんとかここは宿をとることにしただけ。この場所がどんな場所かも知らずに。だれにというわけでもないけれど、空にむかってありがとうと言う。あの日から立ち直ろうとしている場所。

 それはそうと、さっきからあなたの心臓が早いのは、運動をしたせいなのかしら。それとも互いの身体が触れ合ってそんなふうになっているのかしら。それを一緒に確かめましょう。

 腕のなかで胸に顔をくっつけてみる。あたたかい。ずっと交わりに飢えていた。前の人はそういうことが嫌いだった。無理にこんな深すぎる行為はさせられないから、ごめんね…と言われたらそれ以上はもう何も言えなかった。いつも煩悩ではちきれそうだった。わたしはきっとおかしくて、いやらしくて、不道徳だと思いこんで、でも抑えきれない欲望に途方に暮れていた。好きな人に触れられないこと、触れてもらえないことに泣いた。

 それがいま、許され、外にむかって流れていく。身体をゆだね交わることはとても気持ちよくて、うれしくて、この喜びを感じられないのはどうして悲しい。抱擁だけで溶けてしまう。あなたを見ようとゆっくり顔をあげて、思っていたよりしっかり目があって微笑んで、照れくさくて顔をそらす。もう一度。目をあわせて吸い込まれそうになった時に、自然と身体がどちらからということはなく近づいて。目を閉じて…。

 不思議。あなたと会うのは今日で3度目。縁もゆかりもない人だった。いまはもう波の音が遠いところへいってしまった。何も聞こえていない。わかるのは唇の感触と心臓がすごく早く鳴っていることだけ。口からこんなにも快楽がはいってくる。ほんとうはどのくらいそうしていたのかわからないけれど、思い出しても永遠のような長い時間としかわからない。初めて、ためて、ためて、あなたに触れた感動を、永遠という感じでしか言えない。

 このやわらかくてあたたかい感触は、今わたしがひとり味わっていいものとしてやってきた。この味を得られないなら、地位も名声もお金も何もかも、今のわたしには意味がないの。

 離れてまた重なって、重なってまた離れて。互いに求め合って、互いの味覚を味わって。生きて死んでいくわたしがいただける蜜の味、とても甘い。


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