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かける男



 暗澹たる闇の中を男が一人、走っている。満身から噴き出す汗にも構わず、只もう我武者羅の様子である。彼の息づかいと地面を蹴る音だけが辺りの静寂を破る。どれだけの年月をこうして走り抜けたのだろう。そうして、これからも疾駆し続けるのだろう。男は、遮二無二走りながら、時にこのような漠然とした考えを起こさないでもなかった。あるいは、あの忌々しき小男の事を。

 この小男について語ることなしに、彼が走り続ける理由を十全に理解することはできまい。小男とは他ならぬ彼自身である。もう一つ踏み込んでいうならば、保身的で、彼を一才の外界物から遠ざけて匿おうとする彼自身の病魔的側面である。彼が生を授かったときから彼に巣食い、積極的な活動に反発を働いてきた。
彼が庭から抜け出そうとした折には、どこからともなくこの門番が現れ、彼を境界の内に留め置こうと尤もらしく諭した。また、大空を翔けようと翼を広げたときも、必要がないと折ってしまった。彼の怪我の少なく育った事は、確かに小男の保護によるところが大きいのであるが、それでも彼は、彼について回るこの監視人を憎らしく思わずにはいられなかった。

 しかし、この小男も随分と巧妙で、いつも強制力を以て彼をやり込めたわけでなく、貧弱な者が憐憫を買うときの、あの一種の見え透いたわざとらしさによって、か弱げに彼に訴えることもあった。
それは丁度、彼が今と同じように烈烈と努めていた道中のことである。
暗闇を駆け抜ける彼の眼前に、この小男はいつもの如く、たちどころに姿を見せた。只、常と違うのは、その様子に権威めいたところがなく、地べたに座り込んで、折り曲げた両足に顔を埋めているのである。如何にも悄然としており、これを通り過ぎてしまうのは余りにも冷酷だと思わせるようであったので、男は足を止めて、この体をたたんでいる為か、いつもより矮小な印象を与えた小男の傍まで歩み寄った。男は、この行動によって、自身の内に優位の心が芽生えるのを認めた。そうして、まるで気を抜いてしまっていた。刹那、みるみるうちに、この小男が膨大して、しまったと踵を返して立ち去ろうとする男を包んでつらまえてしまった。

 以来、男はこの小男が自身を容易に呑み込んでしまうほどの禍々しい魔物であることを知り、これを克服する誓いを己の内に打ち立てた。

 そうして、唯ひらすらに、全てを擲ってかける。背中の折れた翼と共に。


#ショートショート


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