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010.富士ソフト横浜ビル(旧若尾ビル)

≪3.生糸貿易をささえた横浜の洋館・建造物010/本町通り周辺≫
*本町通り4丁目交差点に立つ富士ソフトビル。
 
 明治維新を機に横浜で生糸取引が熱くなるころ、開港場に若尾幾蔵という商人がいました。
 明治初めに甲斐・甲府から東京に出てきて水晶や生糸、綿花、砂糖の取引などに携わったあと、明治8(1875)年に本町通りで独立して生糸取引業を開始。持ち前の商才を発揮して、横浜の生糸取引を大きく成長させ、業界団体の育成にも力を尽くした立役者の一人です。明治13(1880)年には横浜商法会議所設立に際して初代常議員を務めた横浜の経済界を支えた人物でもあります。
 事業は本町4丁目(当時は本町1丁目)交差点で始め、幾蔵から⇒長男(2代目幾蔵)⇒その長男若尾幾太郎・・・と受け継がれ、その3代目、若尾幾太郎が大震災後の大正14(1925)年に建て変えたのがこのビルです。
 
■若尾ビルは本町通りのランドマークだった
 本町通り4丁目交差点にある若尾ビルは、横浜銀行集会所から道路を隔てた隣という絶好のロケーションで、鉄筋コンクリート造り、地上7階、地下1階。
 現在、このビルは残されていません。いまある富士ソフトビルは、平成13年(2001年)に若尾ビルが取り壊されて建て替えられたもので、その際、低層階に、若尾ビルのモチーフが一部で生かされましたが、残念ながらもともとの若尾ビルが持っていた外壁や構造などはほとんど残されていません。
 
 当時としては先端技術の工法によるタイル張りの高層ビルであり、本町通りのランドマークとして注目を集めていました。銀座で言えば、4丁目の三越か、和光ビル(現:SEIKO HOUSE GINZA)というところです。当時の絵葉書などにもたびたび登場していますから、当時としては、7階建てのビルは、地震大国日本としては摩天楼にも匹敵するような、話題になるような高さだったのでしょう。
 設計は川崎鉄三です。盛んにモダニズム建築を取り入れたデザイナーとして人気があり、大さん橋地区のエクスプレスビル(018)や、昭和ビル(カスタム・ブローカービル020)、インペリアルビル(035)などを設計しています。
 
 ■交差点に平面を向ける
 ユニークなところは、交差点に面した角が削られて幅5メートルほどの平面が作られ、入り口が設けられていたことです。交差点を渡ってくる人に向けて、ビルの角ではなく、平面を向けるようにデザインされているのです。入口の左右には円柱がおかれ、柱頭に金具の飾りが付けられていました。壁面が、四角い大きめのタイルで、エッジにアクセントが入り、川崎のモダニズム建築の特徴がよく表れたビルだったのです。
 もともとのビルは、5メートルほどの外壁面が角に向いていて、交差点に向けて正面があり、入り口が設けられていました。ランドマークとして一目で「あのビル」とわかるとても特徴のあるデザインだったのです。

かつての若尾ビル。交差点に向いた角に平面を見せた
独特のデザインでランドマークになっていました。
交差点に面した角の平面はいまはありませんが、入口左右の円柱と柱頭飾り、
フチどりされた四角いタイル・・・などの意匠は踏襲されています。

 改築で残念ながらその意匠はなくなってしまいましたが、新しいビルも角に1階の入り口が作られているなど、その意匠の面影が、新しいビルの1階部分にわずかに引き継がれていて、よく見ると川崎のモダニズム建築の片りんをうかがうことができます。
●所在地:横浜市中区本町4-34


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