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戦艦三笠と猿島――日露海戦を勝利に導いた旗艦と要塞の島

                 日露戦争日本海海戦での旗艦「三笠」

(1)「天気晴朗なれど波高し」よみがえる三笠の雄姿

■三笠公園までのアプローチを楽しむ
明治38(1905)年、世界最強とうたわれたロシアのバルチック艦隊を破って列強を驚かせた日本海海戦。連合艦隊の旗艦として活躍したのが戦艦三笠である。
 
英国ヴィッカーズ社で明治35(1902)年に竣工した15,140トンの戦艦。往時をしのんで、横須賀三笠公園に保存されている三笠と、三笠沖1.7kmに浮かぶ東京湾要塞の「猿島」のレンガ造りの要塞跡を訪ねる。
 
京急線汐入駅を降りてどぶ板通りを真っ直ぐ進むと、大滝町の大通りに出る。
右に行けば5分ほどで京急横須賀中央駅に至るこの通りが、横須賀随一の賑やかな通りである。
逆に、横須賀中央駅を起点にするなら、改札口を出て左に大滝町の通りを7、8分進むとどぶ板通りの入り口(出口)に出てくる。
 
この交差点を国道16号に出て海の方にしばらく進むと「三笠公園」入口のアーチが見える。
正面に米軍基地の入口が見えるが、手前を右に折れてまっすぐ5分ほど進むと三笠公園だ。京急線の汐入駅から1.5km、横須賀中央駅から1.2kmほどの距離だ。
 
三笠公園入り口から三笠公園までの約300メートルほどの道は、遊歩道としてきれいに整備されている。
途中に、住友重工㈱浦賀工場で昭和59(19854)年に建造された2代目の日本丸のマストを1/3に縮尺したモニュメントが置かれている。マストだけだが、帆を張った美しい姿が想像される。
 
この遊歩道をさらに進むと、花壇と疎水のある三笠公園に出る。
一帯は、花と水がベースになった海辺の公園になっており、音楽噴水などもあって日に何度か音楽に合わせて噴水が上がる。
夜にはライトアップされているので、夏の夕涼みにもいいだろう。
 
公園の中央に司令長官東郷平八郎の像が立っていて、背後の海べりには、三笠のネイビーカラーの雄姿と高く天に伸びるマストとが見える。

本町通に面した「三笠公園」への入り口。
三笠公園入口を入ると、正面に米海軍基地の三笠口ゲートがある。
三笠公園への遊歩道に、高速帆船2代目日本丸(住友重工浦賀ドック製)の1/3サイズのマストがモニュメントとして飾られている。 遊歩道を進むとやがて遠くに三笠が見えてくる。

 
■「坂の上の雲」の世界
 司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読まれた方にとっては、戦艦「三笠」と聞けば、主人公の一人秋山真之の人生と重なって、ある感慨をもって思い出される名前ではないか。
 
日本が国際社会に登場する過程でおきた、ロシアとの清国・遼東半島をめぐる争いに端を発した日本海海戦で、司令長官東郷平八郎の巧みな戦術で、無敵といわれたロシア・バルチック艦隊を撃破した、その旗艦である。
 
勝利した日は、町には終日万歳三唱の声が絶えなかったという。
国民が戦いの結果をかたずをのんで見守り、日本の行く末を自身のことのように感じていた時代である。
 
三笠は英国ヴィッカート社のバロー=イン=ファーネス造船所で作られ、1902年に就役した。
全長131.7メートルで排水量15,140トン、最大速力は18ノット、乗員860名、主砲40口径30.5センチ連装砲2基4門、副砲40口径15.2センチ連装砲14門・・・。
当時の世界最高クラスの性能を誇る軍艦である。
 
戦艦「三笠」が記念館として保存されるようになったのは、大正14(1925)年。
進水以来25年、軍縮条約により廃艦・除籍された三笠が解体の危機に瀕したとき、国民の間から保存の声が上がり、横須賀に置かれた。
 
昭和33(1958)年、保存会が結成されて記念館として整備され、一般に公開されるようになった。
現在は、国の委託を受けて財団法人三笠記念館として保存・公開活動が展開されている。観覧料は600円(シニア500円)。ゆっくり見ても1時間、しばし明治に時代に戻って当時を思ってみるのもよい。
 
館内では、主砲の30センチ砲やその砲弾、15センチ砲が置かれた砲室、環境などをま近かで見られる。
三笠の艦橋に立って、
「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
 
と大本営に打った電文や、Z旗に込めた、
「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」
 
と暗唱してみるのも悪くない。

三笠を背に立つ司令官東郷平八郎の像
記念館「三笠」の配置図(「三笠保存会」案内より)
主砲の40口径30.5センチ連装砲。重量400kgの弾丸がすぐ横にあり、装填の大変が分かる。
配置図に補助砲と書かれている8センチ砲、合計20門あった。
砲室の15センチ(6インチ)速射砲。ここにハンモックをつって10名の砲手が寝起きをしてた。
操舵室。
艦橋からの眺め。ここに立って砲弾が飛び交うなか、東郷平八郎や秋山真之が指揮をとった。

■現存する唯一の戦艦
明治以来、海軍が建造・購入し、就役した艦船のほとんどが残されていない。廃船になった船は解体され、鉄材は再利用されるから残ることはない。
 
帝国海軍が誇る、史上最大の戦艦、大和(263m、69,000トン)や武蔵(263m、62,000トン)も、第二次大戦中に敵の攻撃を受けて沈没したまま、海の底に眠っている。
 
最近、武蔵が見つかったと報告されているが、海中の遺跡として、簡単に引き上げることはできないのだ。
 
また、大和の前の、フラグシップだった長門(225m、39,120トン)は、沈没せずに終戦まで生き残ったが、戦後、米国に接収されて、1946年ビキニ環礁で行われた核爆発の実験「クロスロード作戦」の標的として使われ、第2回目の核実験を受け7月29日に沈没した。
 
記念館「三笠」は、残されている唯一の帝国海軍時代の戦艦であり、貴重な資料でもあるのだ。
 
残念ながら、主砲、副砲は、除籍する時点で取り外されたので、現在、装備されているものはすべてレプリカだが、三笠艦上で見る限りそれをほとんど感じない。
なにより、その質感・重量感に圧倒される。
 
砲室のハンモックの様子などを見ると、砲の横で寝起きした砲兵の思いなどが伝わってくるようだ。これはぜひ一度見ておきたい。


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