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5-1. 物事を他人より早く知って金を儲ける、ということをすると信頼を失い、事業は成功しない。

 阪急グループ創始者 小林一三

 一般には知られていない情報を真っ先に入手し、その情報をもとに行動を起こせば、人に先んじることができる。

 たとえば、土地である。遷都論議があちこちで行われているが、遷都先の情報をいち早く入手し、その土地を購入しておけば、巨利を手にすることは簡単にできる。
 そうして、企業や個人の資産を膨らませる人間を、有能と称したりするが、そうしたことは誠実な人間のすることではないと言うのは小林一三である。

 アメリカを旅行中の小林一三に、ある会社の社長から親展で書類が送られてきた。小林はそれに目を通したあと、近くにいた側近の若手に「他人には見せるな」と明言して渡した。
 若手が手紙をあけてみるとそれはA社の決算書で、ベラ棒な利益を上げて、資本を3倍に増資する、それも、すべて会社が払い込む。つまり1株がほぼ3倍の価値を持つようになるという計画が記されていた。
これが漏れたら株価は暴騰すること間違いなしという情報である。

 旅行の最後に、小林は旅行の費用が余ったからと、若干の金を同行した彼らに渡し、「それをどう使うのか」と尋ねた。

 若手社員は、前日に聞いたA社の株の件が頭にあったので、「A社の株でも買っておきます。あの会社の株はいいですね」と答えた。それを聞いた小林は、

「君は秘密を知って、一人で先取りするつもりか」

と大声一喝したという。小林は次のようにも言っている。

「私が今日、売り上げで十億円にあまる事業を経営して各会社を繁栄させている理由は、私が物事を他人より先に知って、金儲けをしたことがないからだ」

 小林は阪急電鉄の創始者でもあったから、阪急の鉄道を敷く場所は早くから知っていた。だから、その土地を買っておけば儲かるのは決まっている。そういうことを絶対にやらないところに、小林の倫理観というか矜持があった。

 若手社員への小林の叱責に、耳が痛いムキは少なくないに違いない。しかし、それでも、得をした方がいいから、A社の株を買うという人は多いのが実情だろう。政治家を筆頭に、多くの人は、できれば情報を先取りしてボロ儲けしたいと思っている。小林の言う倫理観がなくなってしまった。それが資本主義のもたらした弊害でもある。

 しかし、小林はそうしたことをしてはならないという自分の信念を貫いた。
 電車のターミナル駅に百貨店を置き、沿線にレジャーランド(宝塚)を作り、百貨店の上の階に食堂街を設け……とさまざまな新しいことを考案し、成功させた小林一三を希代のアイデアマンと賞賛する声が多いが、小林の経営者、実業家としての偉大さは、こうした倫理観をしっかりと持って行動していたところにある。

 小林の地方分権論や海外進出論は、つまり住民、一般大衆、弱者が幸せになるにはどうしたらいいか、という社会正義がベースとなっているのである。
 小林の始めたデパートは「どこよりも良い品を、どこよりも安く」をモットーに、安売りを誇ったものであったし、食堂ではライスカレーを始めとして、ご飯にソースをかけただけの安価なソースライスなるものをメニューに加えたりした。デパートの食堂は、あくまでも庶民に手軽に利用してもらえることを目指していたのである。

 小林は「どこよりも安く」をモットーにしたが、しかし、やみくもに安売りさえすればいいとは考えなかった。たとえば、安売りの目玉商品というやり方も、小林は否定する。

 100円のキャラメルを90円で販売すれば、損害は1個あたり10円、1000個売っても損害は1万円にすぎない。1日1000個売っても1ヶ月の損害はわずか30万円である。それであの店は安いと評判をとることができれば、宣伝費として安いものだ。
 しかし、と小林は言う。

「われわれの社会生活は自分だけ儲かれば、あとはどうなってもいいというのではない。百貨店はキャラメルで損をして他の商品で儲けて埋め合わせることもできるが、それではキャラメル専門の小売店が助からない。足袋にしても、靴にしてもそれを犠牲として売られたのでは小売店が致命傷を被るだろう。こういうことは心ある百貨店のなすべきことではない」

 そして、「百貨店が価格競争をする商品は、自分の工夫で価格を下げられた商品だけに限るべきである」と述べているのである。
 儲ければ正しいことをしたことになるという、勝てば官軍式の現代の商道徳は、この小林の意見にどう応えるのであろうか。

 かつて日本産業の勃興期には、小林のような倫理観を基盤に、時代を見通す先見力と強烈なリーダーシップで産業界をリードしてきた偉大な実業家たちがいた。こうした実業家たちの思想は、いまやどこへ行ってしまったのだろうか。


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