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038.第2代横浜駅遺構

≪3.生糸貿易をささえた横浜の洋館・建造物037/みなとみらい・新港地区周辺≫
 *いま、2代目横浜駅はマンション建設計画で発掘・調査され、敷地内で一部が公開されています。
 
 ■生糸貿易優先の鉄道敷設
 大政を奉還してできた明治新政府は、英国公使パークスらのアドバイスで、日本の近代化に鉄道を敷設することが重要である、と判断しましたが、いざ、具体的な鉄道計画を作るとなると、当時の明治の首脳たちは、試行錯誤、右往左往しました。大きな問題は、財政がひっ迫していて、その資金がないことでした。
 
 明治新政府にとって、まずは、近代化=殖産興業・富国強兵を進めるための資金源を得ることが焦眉の急だったのです。アメリカの圧力に屈してやむなく開港しましたが、そこで生糸やお茶が売れることを発見した明治政府にとっては、生糸輸出で資金を得ることが近代化への唯一の道だったというわけです。
 こうして、明治政府は、貿易を促進するため横浜へのアクセスを優先して、新橋-横浜間の鉄道敷設を最初に進め、明治5(1872)年9月12日(新暦:10月14日)、横浜-新橋間に日本初の鉄道を開業させました。距離は29kmでした。
 
 新橋-横浜間に鉄道を敷設するにあたって、本来は、日本国内の鉄道網をどのように敷設するか、その計画の一環としての新橋-横浜間であったはずなのですが、とりあえず、生糸貿易のことしか頭にない明治政府が、急いで横浜へのアクセスだけを考えて、新橋-横浜の線路を敷設することになりました。長期的な視点もない、ただ、東海道に沿った、新橋と横浜を結ぶ最短距離に道でした。
新橋-横浜間に続いて、大阪周辺、東海道線が計画されましたが、続いて敷かれた鉄道は上州の生糸を東京に運ぶ高崎線でした。
 
 ■さまよえる“横浜駅”
 こうして急遽、敷設された鉄道の、最初の横浜駅がいまの桜木町駅です。ところがこれが、その後、何度か線路を敷き替え、横浜駅の場所を変えざるを得ない羽目になった問題の多い路線だったのです。
 現在の横浜駅は場所から言えば3代目にあたります。なぜこんなに場所を移動することになったのか、それがそもそも初代横浜駅の立地に問題があったからなのでした。結論をひとことで言えば、計画性のなさ、につきます。
 鉄道を敷設するにあたっては、全国の鉄道網を念頭に、個々の路線を検討しなければならないが、いろいろと問題が出てきて、計画がなかなか進まない。若い明治政府は右往左往して、全体の大きな絵を描くという機能が欠けていました。横浜が移動したというのはその行き当たりばったりの結果なのです。
 参考にしたアメリカ、イギリスはどちらかといえば平坦な土地、せいぜいなだらかな丘陵があるくらいで、どこに鉄道を敷設しても問題はありません。しかし、日本を見てみると、急峻な山岳地帯が中央にそびえ、鉄道を敷設するのはなかなか難しい立地です。
 
■さまよえる横浜駅
 例えば、2大都市、東京-大阪をどう結ぶか、でも2つに意見が割れました。常識的に言えば大動脈として東西の移動に利用されてきた東海道に沿って線路を敷設することになるのでしょうが、これに大村益次郎率いる陸軍が大反対しました。
 理由は「外国から侵略される危機が迫っている状態で、海岸線に命綱ともいうべき大動脈を敷設すれば、艦船からの攻撃を受けやすい。海岸から離れた中山道に敷設するべき云々・・・」という理由です。
最終的には、中山道ラインは、碓氷峠への急峻な登りを越えられない、山岳地帯の工事が難しいとのことで、やっと東海道路線に決定しましたが、この議論に十数年が費やされてしまいます。
 完成を急ぐために、大阪、名古屋、静岡・・・とパートごとに並行して工事が進められ、最終的に残った区間が、保土ヶ谷-横浜間だったのです。
 当初、敷設された路線の横浜駅はターミナル駅・終着駅で行き止まりです。東京から来た南東に向かう列車の先には新港場・居留地があり、そこから東海道に向かう先に丘陵地が広がります。当時の蒸気機関車のパワーではとても越えられません。線路を敷設することが難しく、車を南西の保土ヶ谷・戸塚の方向に向かわせるためには横浜駅で列車をUターンさせるしかありませんでした。
 
 機関車を入れ替える転車台を設置し、Uターンをさせて当面しのぎましたが、東京-大阪間の便数が増えるといちいち列車をスイッチバックさせていては時間がかかります。そこで、途中に新たな駅を造って「2代目横浜駅」とし、そこから保土ヶ谷に向けて線路を敷くようにしました。そこで、横浜駅は「桜木町駅」と変更されることになりました。桜木町駅の名前は近くを流れていた桜木川から付けられました。
 2代目横戸浜駅の場所は、今の市営地下鉄ブルーライン高島町駅のあるあたり。大正4(1915)年のことでした。

マンションのまえの道路をはさんで、京浜東北線の高架が走っています。
マンション建設に義務付けられている、公共空間の一部として遺構が残されています。
こうした地域貢献も、遺構保存の重要な一つになっています。

 2代目横浜駅が生まれたことで、東京から来た列車はスイッチバックせずに保土ヶ谷に進むことができるようになりましたが、8年後の大正12(1923)年9月1日に襲われた関東大震災によって、耐震レンガ造りの駅舎は付属の建物を含めて全て焼失してしまいました。
 震災後にこの駅を再建するという計画もあったのですが、時代は軍国へまっしぐら。この間に、日清・日露両戦争で大本営が置かれた広島・宇品への大量の軍事物資輸送、横須賀海軍基地へのアクセスの改善が求められ、横浜駅に寄らずに保土ヶ谷に直行するルートに路線が敷かれました。急行列車は、横浜に寄らず、保土ヶ谷に直行するようになり、現在、相鉄線平沼橋駅があるあたりに、乗降用の駅として「平沼駅」が作られました。
 関東大震災の後、2代目横浜駅を再建するよりも、直行路線に駅を設けた方がいいのではないかという案が出て、横浜駅をその分岐点に作ることになりました。それが現在の横浜駅(=3代目)です。完成したのは昭和3(1928)年でした。
 完成した3代目横浜駅駅舎は東洋一のモダンな駅舎といわれましが、駅舎のある東口は道路でその先は海、裏側(西口)は畑。駅舎は戦争で被災せずに残りましたが西口が米軍に接収されたため、乗降客のほとんどいない、いわば乗換駅になっていました。
 
 ■改札口が2階のモダンな赤レンガ――2代目横浜駅
 さて、その2代目横浜駅ですが、わずか8年という短命の駅でした。あった位置は、いまは高島交番のすぐ裏で、マンションの入り口奥に遺構が残されています。 東京駅に似た赤レンガの駅だったようです。

マンションの入り口の奥、遺構の前に掲示されている案内板。
図柄は2代目の駅舎。レンガ造りの東京駅に似たデザインです。
レンガは、長手を連ねたイギリス積みのようで、中心部までレンガが積まれています。

この駅は、スイッチバック線路時代に新橋-横浜の横浜行と東海道線が分岐する駅で、そのほかに鶴見からの貨物線がこの駅を利用していたため、3つの路線が交差する三角形の構造になっていたようです。そして、改札口が2階に設けられ、跨線橋で互いの路線に行くという構造が取り入れられていて、新しいモダンな駅でした。
 耐震強度を高めるために、石材、レンガ積みで、レンガ積みに金網が敷かれようです。外観は見られませんが、破損したレンガ壁などがそのままあり、レンガ積みの内部がさらされ、レンガがどのように積まれていたのか、レンガ壁の中までが分かります。
 ●所在地:横浜市西区高島2丁目1−1



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