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Y1-5. 遅れてきた国--フランスの逆転策――25歳の造船技師レオンス・ヴェルニー

       ヴェルニー公園で小栗上野介と並んで立つヴェルニーの像
フランスにとって、小栗からの造船所建設への支援申し入れは渡りに船だった。
1854年、幕府は日米和親条約を締結した後、イギリス、オランダ、ロシアと和親条約を結ぶが、こうした動きに乗り遅れたのがフランスだった。
 
そして、58年7月に、幕府は米・蘭・露・英と続けて修好通商条約を締結するが、フランスはこれにも乗り遅れ、通商条約を結ぶのは2か月後のことだった。
 
しかし、逆にこれがフランスに幸いした。先行する4か国が、居丈高に幕府に開国をせまり難題を持ちかけるなかで、乗り遅れたフランスは幕府に食い込むために、他の4か国への対応法をアドバイスするような協力姿勢で幕府と接するのである。
 
フランスは、幕府がイギリスの船会社から購入した翔鶴丸の修理にも応じ、幕府から信頼をえたことで、軍港や造船所建設の相談が持ち込まれるようになった。
 
小栗上野介から本格的な軍港・造船所づくりへの相談を持ちかけられたロッシュらが造船所建設の責任者として推薦したのが、上海で造船の指導をしていた25歳の造船技師レオンス・ヴェルニーだった。ヴェルニー公園、ヴェルニー記念館の名は造船所の首長だった彼の功績を記念して名付けられたものだ。
 
小栗らの当初の計画では隣の長浦湾に軍港を作る予定だったが、水深が足りないことが分かり、ヴェルニーやロッシュらとの視察で、ツーロンによく似た地形の横須賀に設置することが決められた。

地中海に面したフランスの軍港ツーロン。横須賀港は、ここをモデルに整備されることになった。横須賀港の地図を回転させてみると、地形がよく似ていることがわかる。

■フランス式マネジメントの導入
横須賀にツーロンを模した軍港と造船所を作るために、計画は2段階で進められた。
 
横須賀で使用する機械類などを整備する製鉄所を、先行して横浜に建設し、同時にフランス語と造船技術者を育成した後に、横須賀製鉄所を建設する。
 
この計画に従って、1864年に横浜製鉄所を、翌65年に横須賀製鉄所を起工する。
その間、ヴェルニーはフランスに帰国し、必要な技術者を採用し、設備を手配した。
 
こうして採用され、来日したフランス人技術者は52名、敷地内に造船・修船用のドライドックが作られ、長さ300mの製綱工場などの施設が整備されて、本格的な造船所として稼働し始める。
 
この横須賀製鉄所には、フランス人技術者が導入されるのに合わせて、フランス式のマネジメントが導入された。
 
勤務時間が明確に決められ、日曜日を休む週休制が導入され、また、造船技術者を育成するための学校が設置された。後述する浦賀ドックをはじめ、国内各地のドックなどはここの学んだ技術者たちによって作られた。
 
この工場は、横須賀製鉄所以外の仕事も引き受け、日本の産業近代化にさまざまな貢献をしていくことになる。
 
明治政府も各国との通商協定の締結で知恵をつけていき、フランスとの通商条約では、横須賀製鉄所をはじめとして具体的な支援をうたうようになっていた。
 
洋式の近代的な灯台の設置もその一つで、観音崎灯台、野島崎灯台などがフランス人によって設置された。
また、フランス人ポール・ブリューナが首長を務めた富岡製糸場の工場を設計し、機械類を整備するなど、遅れて日本にやってきたフランスが、日本の産業近代化に大きな貢献をするようになったのには、他の国々の高圧的な態度の隙間をついたしたたかなフランスの戦略でもあった。

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