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4-8. 同一労働同一賃金は、不公平だ。

 本田技研工業創立者 本田宗一郎

 民主主義の象徴的な言葉は「平等」である。
 平等を口にする人は多い。しかし、いったい平等とは何かという議論はあまりされない。そのせいか、決して本質的には平等ではない、形骸としての平等がのさばる土壌ができてしまったと嘆くのは本田宗一郎である。
 かつてに比べて変質・弱体化していたとはいえ、労働組合も「同一労働同一賃金」を唱えるが、これは決して平等ではない、と本田宗一郎は疑問を投げかけていた。

「公平にしようということで、『同一労働同一賃金』と言うが、この考え方は不公平だと思う。賃金を欲しい人もいれば、賃金は少しでもいいから、オレを重視してくれというプライドのほうがほしい人もあるだろう」

 とはいえ、みんな給料は高いほうがいいから、「うんと働かない人がいて、よく働く人と給料が同じだったら不平等である。だから本当は能率給であるべきだ」と言っている。

 人間を働きにしたがって評価し、それに応じて支払う…古今東西追求されてやまなかったこの能率給・成果給の理想が、完全な形で実現しなかったのは、大きく2つの理由がある。それは、

 (1) 各社員がその持つ能力を平等に生かすことができる適材適所への配置ができない

 (2) 万人が認める「能率/成果」の測定の仕方が、わからない

ということだが、それが現在の人事給与制度の大きな課題であり、給料の高い中高年がリストラの名目で職場を追われる要因にもなっている。

とくに日本の場合、個人の能力だけでなく、チームとしてパフォーマンスが高くなるようなマネジメントが行われてきたという経緯があって、担当する業務を処理する能力だけでなく、チームとしてのパフォーマンスを向上させるような潤滑油としての存在がクローズアップされ、そうした存在をチームの士気を高める役としてそれなりに評価してきたという要素もある。

 同一労働同一賃金をめざすなら、まず、各人が持つ能力を十分に発揮できる配置や環境を与える必要があろう。それが実現して初めて、レベルの高い平等と競争が可能になるという意見も根づよくあるのだ。


他方、能力給・成果給制度が行われているとされるアメリカなどでも、それが企業、従業員にとって万全ではないことは、ニューヨークの不動産会社でのセールスマンたちの熾烈な競争を描いた映画「摩天楼を夢みて」などでもよくわかる。
しかし一方で、日本のマネジメントのあいまいな成果・能力評価に考え方に疑問も出されてきた。この辺りは日本の文化にもまつわる永遠の課題であろう。

 日本人の労働生産性について強い関心を持ち、自社でも調査をしている富士通社長の関澤義も、企業の経営者としての責任を果たすという意味で、経営年功序列の賃金制度に疑問を呈してきた一人である。


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