「責任を取るとは何か?師匠と弟子の対話」

弟子: 師匠、最近、「責任を取る」という言葉をよく聞くんですが、具体的にどういう意味なのでしょうか?「この仕事は、私の思うようにさせてください。責任は自分で取りますんで」といった言葉が聞かれます。

師匠: いい質問だ、弟子よ。責任を取るというのは、結局、どうするんだと思ってしまうのではないか。責任を取るという行為には深い意味があると私は思っている。

弟子: 具体的にはどういうことですか?

師匠: では、「責任」とはどのような使われ方をしているだろうか。例えば、保阪正康と丹羽宇一郎の『負けてたまるか日本人』には、「誰が決めたんだ?誰の責任だ?」と問われても、「みんなで決めました」と答えるしかないと書かれている。責任感が曖昧になることが多いのだ。

弟子: それは同意します。責任という言葉自体が漠然としている気がします。

師匠: そうだな。鴻上尚史と佐藤直樹の『同調圧力』では、「自己責任」という言葉が、個人を集団から排除するための便利な論理だと述べられている。つまり、責任を取るというのは、「世間」からの見方に大きく影響される。

弟子: それなら、「責任を取る」ということは、失敗した場合にその集団から離れる覚悟を持つことだということでしょうか?

師匠: そういう見方もできると思う。しかし、それだけではない。垣根涼介の『信長の原理』には、「大将が己の責任において一人で決断すること」という言葉で「責任」という言葉が使われている。つまり、責任を取るということは、自分で決断し、その結果を引き受けることとして使っているように考えている。

弟子: 山口周の『武器になる哲学』にも、「何をするか、何をしないかという意思決定に責任を取る必要がある」とありますね。つまり、決意を持って行動することが責任を取るということなんですね。

師匠: そうだ。さらに、キングスレイウォードの『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』では、責任を受け入れることが挑戦を受け入れることであり、素晴らしい成果を迎え入れるための扉を開くことだと述べられている。

弟子: つまり、責任を取るというのは、失敗しても、その結果を納得いくまでフォローし続けることなんですね。

師匠: その通りだ、弟子よ。私は、責任を取るというのは、「失敗したとしても、最後まで自分でする。そして、失敗で影響を受けたみんなを改めて納得させるまでやり遂げる」という行為だと考えている。失敗しても、被害を被った人々が納得いくまで、自分でフォローし、解決に努めることだ。

弟子: それなら、テレビとかで「責任を取って辞める」という言葉とか「責任を取って辞めないんですか」ではなく、「責任を取るために、今の仕事を辞めてでも精一杯フォローする」ということですね。「辞める」というのは途中のステップでしかないんですね。

師匠: そうだ。それが本当の意味での責任を取るということだ。「責任を取る」というのは軽々しく言えるような言葉ではない、と考えている。最後まで自分でする決意があるのか、そのうえで「責任を取る」という言葉を使っていく必要があるのだ。

まとめ

責任を取るということは、単なる言葉や形式的な行為ではなく、深い決意と行動が伴うものです。師匠と弟子の対話を通じて、責任とは何かを考えるきっかけとなれば幸いです。責任を果たすことは、自分の行動に対する真摯な態度と、他者への配慮の表れでもあります。そして、だからこそ、責任を取る、という最後まで自分でやり抜く決意をもって望む姿勢が必要なんだと思っています。この対話が、責任の本質について考える助けとなることを願っています。

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