今川義元と桶狭間の戦いについてなんとなく書いた記事

東海一の弓取り」とかいうカッコよすぎる異名を持つ戦国武将がいる。

その名は「今川治部大輔義元」。同時代を描いた数多くの作品で恐ろしく強い織田信長最初の難敵みたいな描かれ方を良くするので、なんか小学生でも知ってるような武将の1人である。

実はこの人、ざっくり言うと戦国大名としての国家運営能力がエグくて1個の国を作り出してしまった男で、部下は有能な上に兵の動員力も段違いという、信長からしたら想像以上の強敵である。ぶっちゃけマジで勝てない

しかし歴史の結果は知っての通り、尾張侵攻の際に発生した「桶狭間の戦い(1560年)」で織田信長に敗れて命を落とした

いやなんでそんな強いのに負けたんだよ。って本当なら思う話である。本記事ではそれについて触れていく。

桶狭間の戦いとは?

桶狭間の戦いとは、前述の通り1560年に発生した、侵攻してきた今川義元勢と防衛側の織田信長勢による合戦である。

両軍の兵力については色々あるが、2万5000人vs3000とか4万vs2000とか……確かなのは、総兵力が10倍以上である今川勢が10分の1しかいない織田勢に敗れたという事実だ。

織田信長の奇襲

桶狭間の戦いでなぜ織田信長が勝ったかというと、一説によると今川本陣を突いた奇襲攻撃だったという説がある。

当然だが2000人と2万人が正面から戦えば、よっぽどのことがない限り2万人が勝つ。例外として、元々戦う気がない2万人(形だけの援軍など)が相手ならばちょっと対陣して撤退するとかはあるだろう。
これを宣伝目的で2000人側が勝ったと吹聴することもあるだろうが、2万人側の大将が討ち取られるなんてことはまずありえない。

定石では勝てない合戦に対し、セオリーに反して何が起こるかわからない奇襲は実に効果的な戦術だ。事実かどうかはともかく、合戦があったのは梅雨とかいう雨の多そうな季節。前も見れないような雨の中、織田勢は今川に気付かれることなく近付いて、襲撃したというものだ。

そりゃお天気やばいな~~とか思ってたら突然織田勢が現れるのだから、まさに奇襲だぁ!

「勝てるはずがない織田勢が今川を奇襲で勝った」なら、奇跡の一例としてなんとなく腑に落ちるだろう。

今川軍は部隊が伸びきっていた?

ただ奇襲しただけでは、まだ織田勢の勝因とするにはかなり弱い。

もう一つの勝因として有名なのは、今川勢はかなり軍が伸びきっており、大将の馬廻り(親衛隊)が手薄だったという説だ。これを織田勢が正確に突き崩し、大将首に迫ったというものである。

これはどうやら本当だったようで、今川の前線部隊と今川義元本隊とでは相当な距離があったのだろう。織田勢が10分の1の2000人であっても、対するのが数千に満たない今川本陣の部隊だけならば互角の合戦になる。そこまで来たら勝てそう。

これに加え、前述の通り雨で気配と足音を消して近付いた織田勢。突如襲われた今川勢の狼狽っぷりは想像するのに難くない。

今川本陣がバレたのはなぜか?

さて、とりあえず織田勢の奇襲が上手くいって勝ったとする。この作戦が成功するにはもう1つ情報が必要である。それは、「今川義元の本陣がどこにあるのか」だ。

これには念入りに探りを入れていたという説もあるし、信長の居た山や砦から見えたということも考えられる。まぁ「ここが弱点ですよ」と教えんばかりのリスキーなことをするとはとても思えないんだが。

ハッキリした理由は「これしかない!」とは言えないのだが、どこかで織田勢は今川の行軍を見ていて、ここに今川義元がいるとアタリをつけ横槍を突いて混乱させようとしたのだろう。

さまざまな要因によって奇襲は刺さった

かくして奇襲が成功し、突然の強襲に混乱する今川勢。本陣は大将を守るのに必死になる。しかもこの合戦現場は湿地帯であり、地面が悪すぎてスムーズな撤退はできなかった

今川義元も奇襲を受けてはひとたまりもなく、織田の勢いを見ても一度は引こうとしただろう。オマケに相手は2万相手に突っ込んでくる死兵で、全員全滅覚悟で攻撃してきたに違いない。いつの時代も開きなった兵士は強い。負けたら即侵略だしな。

退却ができず追いつかれた時に、今川義元も足を止めて応戦したと思われる。最終的には信長の親衛隊に討ち取られることとなったが、かなり抵抗したようで何人かが打倒されている。

総括

ある記録によれば織田勢の被害はだいたい1000人、今川はだいたい2700人ほどと、両軍ともかなりの犠牲を出したようだ。特に今川は強襲による混乱と足場の悪さも相まって、満足に撤退戦ができない状況にあったことだろう。これだけの犠牲が出る理由も頷ける。

なお総大将を失った部隊は脆いものである。頭から下っ端まで線でつないだ「指揮系統」という概念があるが、これはどこかでミスがあると場合によっては危機的な状況に陥ることさえある。

まして、総大将が討たれたのはもはや指揮系統の完全なる崩壊で、とても軍を立て直すことなどできない。侵攻は中断され、命からがら逃げなければならなくなった。

桶狭間の戦いはどこまで史実かわからん

これらの情報の多くは織田信長の一代記として名高い「信長公記」によるもので、割と信憑性が高いものの全部が真実とは言い難いものだ。日本史なんだから当たり前だ。

しかし兵の量も質も3段階ほど違ううえ、国力すら劣っていた織田勢が今川勢に勝つには相応の条件がいる。もちろんこの勝利はそれらの条件が揃っていたからであり、決して織田が凄く強くて今川が凄く弱かった、では済まされないのである。

奇襲ではなかった説

近年の研究では奇襲攻撃が創作で、「信長公記」によるとあくまで正面から戦って勝ったという説がある。しかしもちろん盤面としては、総勢2万人と正面からぶつかったというわけではないだろうが……。

雹交じりの、前も見えないような大雨に乗じて動き雨が止んだと共に本陣へ向けて攻撃をした……が結局事実としては腑に落ちるような気がする。

なお敗走した今川軍だが、主力の将はこの後次々と織田軍に討たれている。この被害が特に甚大で、今川家の中枢を支えていた名将は、井伊など協力的な豪族たちも含めてほぼ全滅してしまった。

じゃあ正面から戦って勝てるのか?

実は正面からぶつかったとしても、織田方にも勝てそうな勝因はいくつかある。
今川軍が大軍であり動きが鈍くなる遠征軍であることや、雹が降り続いた大雨の直後で足下が悪いこと。

なんだかこれだけでは兵力差を埋めるのに弱い気がするが、正面からの戦闘とはいえ織田勢が本陣一本狙いで攻撃を加え、周りの部隊はぬかるんだ土のせいですぐに対応できなかったとかがパッと想像できる範囲。まさか正面から攻撃してくると思わず、今川勢に混乱が生じたとかもありそうだ。

とにかく正面から戦って勝った、というのは真説として有力だ。決定的で結論的な合戦の流れは調べれば調べるほど議論があるので、新しい研究結果が出るのは今後一つの楽しみとなってくるであろう。

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