見出し画像

栃錦の晩年2

昭和34年初で引退も覚悟していた栃錦。しかし同門千代の山に先を越されタイミングを逃した。結果的にそこからの1年が栃錦の名人横綱としての評価を高めたと言われる。

引退の瀬戸際だった昭34初から35夏までの9場所の成績である。

34初 10勝5敗
34春 14勝1敗 優勝
34夏 14勝1敗 同点
34名 15勝 優勝
34秋 12勝3敗
34九州 12勝3敗
35初 14勝1敗 優勝
35春 14勝1敗
35夏 2敗 引退

成績のみ見れば全盛期の20代の横綱と疑うだろう。全勝1回、14勝4回と見事である。にもかかわらず優勝3回にとどまっている。栃若時代が個性的な力士の活躍とテレビ時代にふさわしい攻防ある取組で戦後の黄金時代と言われるが、単なる記憶に残るだけでなく記録的にも優れた時代だった証左だろう。34年は年間77勝13敗、34夏から35春までの6場所には81勝9敗を記録。30年は4場所で40勝(参考に準本場所の成績を入れると6場所62勝)、31年は34勝、32年は5場所で59勝、33年は54勝であった。横綱として晩年程成績が上昇した横綱は栃錦以外にない。引退まで無類の強さだったのは雷電ぐらいで、この点大鵬や白鵬、千代の富士も一歩譲る
こととなる。

横綱大関の強豪が犇いた影響で優勝は3回だが7連覇でもおかしくない数字である。この頃の栃錦は体重も140キロ程まで増え、かつての手取り相撲は姿を消し太鼓腹を利しての横綱相撲だった。立ち合いで手をつかなくなったのは栃錦の相撲が影響が大きいと言われ、師匠の栃木山も唯一の欠点と批判していたが、晩年の栃錦は手をつくことも多くなっていた。まさに栃錦一代の土俵が集大成へと向かっていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?