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談志一代記を読む~若手落語会~

二つ目時代、落語以上にキャバレーでの営業で頭角を現した。スタンダップコメディのスタイルで、謎かけ、フランスのジョーク、現代版の艶笑小咄が主だったようだ。1晩に7軒掛け持ちしたという。

しかし落語にも熱心で湯浅喜久治プロデュースの「若手落語会」のメンバーとなっている。

「芸術祭男」なんて呼ばれた湯浅喜久治です。湯浅は師匠格の安藤鶴夫と共に、志ん生、文楽、圓生、小さん、三木助、後の5人こそが落語なんだという使命で持って「東横落語会」を催していました。それまで三越名人会というのはあったけれども、他の演芸だの舞踊だのを入れずに、落語だけで5本並べるという形の落語会はこれが最初でした。「ホール落語」を始めた人物です。

湯浅喜久治。昭和4年、浅草生まれ。「東横落語会」の企画、演出を担い、突如4年連続で芸術祭奨励賞を受賞したことから、「芸術祭男」の異名をとり一躍演芸界の寵児となったが、昭和34年に29歳で急死。

家業は文具店だったが新劇に興味を持ち、文化学院に入学。在学中より「寄席風流」という雑誌を出す。その面々が志賀直哉、武者小路実篤といった当時の一級文芸人。いずれも無償で引き受けたとか。安藤鶴夫は人に愛される男だったと評しているが人たらしなのか。この頃夢楽、小金治といった若手落語家とも知遇を得、のちの落語会につながる。


正統派落語の後継者として、これぞと見込んだ二つ目連中、あたしや夢楽、小金治、馬の助、小南なんかをメンバーんして「若手落語会」を始めたわけです。のち柳朝、円楽、志ん朝もメンバーになります。有楽町の第一生命ホール、入場料百円でした。毎回大入りでしたが赤字です。全部湯浅がかぶってくれてましたね。

20代半ばでこの行動力と企画力はただものではない。しかし奇行といわれるほどのこだわりも多かったようで

一流好みで、若手落語会という題字は武者小路実篤、デザインは横山泰三、プログラムに谷川徹三が書いたり、客も小泉信三だの久保田万太郎だの。

絵は清水崑に頼むとか、そういうことが好きな奴なんです。ワイシャツは壱番館で、背広は英国屋で、ノートは丸善でってそういうやつでした。

他にも下着はこの店、薬局もこの店と言った具合。東京の名店も知りつくし、ウイスキーもブラック&ホワイト、水は富士山といったところ。美食家なら珍しくもないが、それ以上に銀行は本店に限る、本は書店ではなく出版社から直接買う。それも1冊ずつ装丁を見定め決めるとどこまでも徹底していた。ここまでいくと単なる一流への拘り以上に奇異なものまで感じる。映画は小津、作家は志賀直哉、武者小路実篤に限り、以外は一切うけつけない。徹底した権威主義、排斥主義だったのか。

何といっても東横落語会を立ち上げたことが最大の功績だ。これまでにもホール落語といわれる形の会はあったが、俗曲などの色物が入ったり、6~7人が出演、落語家が運営に携わるなど純粋な意味では異なる。現在まで隆盛を誇る演芸文化の始まりとなった訳で、評価されるべきではないか。

しかし昭和34年、突然他界。

若手落語会を初めて3、4年で、睡眠薬の飲み過ぎで死んじゃいましたがまだ30になるかならないかでしたな。若かったけどきちんと落語の批評眼を持ってる男でしたよ。文楽師匠に他の人と演目が重ならないように配慮したりね。湯浅が死んで、若手落語会は変な平等主義になってあたしはやめちゃいました。

一流主義ばかり目立つが、実際は金銭的に苦しく、身なりが酷いことが多かったようだ。そもそも東横はじめとした演出業も、実家の援助によるところが大きく、奇行とも言われた偏執癖も相まって限界があったという。

とはいえ得体の知れない若者は突如、昭和32年に芸術祭奨励賞を受賞したが、落語に飽き足らずジャズや演劇、歌謡曲といった大衆芸能にまで手を広げた。しかし昭和33年に「若手落語会の金を流用した」とした噂が広まり、生活は荒れて行った。

酒と睡眠薬が放せなくなり、34年1月27日、三笑亭夢楽が湯浅を訪ねたところ、吐血して倒れすでに事切れていた。睡眠薬の瓶が転がってい
たという。前日にも若手落語会のメンバーと飲んでいたが一流主義のかけらもなく酒を呷っていたとか。自殺とされたが解剖では不明。関係者は自殺説を否定した。

いわば談志や志ん朝といった落語界の寵児を世に出した湯浅喜久治。ほぼ忘れられた存在だが、安藤鶴夫も一目置いていたというその才能。ホール落語の創始者として再評価してもいいのではないか。

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