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栃錦の晩年

栃錦は昭和35年、前場所14勝1敗で横綱同士の全勝対決に敗れ迎えた夏場所。既に気力体力ともに限界だった。初日から2連敗であっさり21年の土俵生活から去る。既に34年10月、師匠春日野取締(元一級横綱栃木山)が67歳を一期に急死(相撲界史上初の叙勲・勲四等瑞宝章を受章)したことで廃止された二枚鑑札制度を特例で適用され年寄春日野としても在った。この引き際は春日野部屋師匠でもあったことが大きい。



昭和33年、首相官邸での土俵入り


しかし前年34年初に引退の決意を固めていたらしい。中剃りもやめていた。33年名古屋で12勝の後、途中休場→全休と腎臓炎、リューマチ等で苦しい土俵。33歳という年齢からも限界説が大きかった。同時に盟友だった千代ノ山も全休→1勝4敗10休→全休と長年に渡って痛めた膝の変形性関節症から限界が迫っていた。そんな背景から同門の2横綱が揃って34年初に進退を懸けることになった。5日目、房錦に敗れて2勝3敗となった千代の山が去っていく。横綱を張ること7年半32歳。出羽一門の横綱が2人同時に去ることは許されない。千代の山が前半で去ったことで栃錦に逃げ場がなくなってしまった。5日目時点で栃錦は4勝1敗。連日フラフラながら太鼓腹を生かした相撲で10日目に勝ち越し。後半はヌケヌケの星で最終的に10勝5敗。千代の山が現役続行ならばあるいは栃錦が引退だったかもしれない。しかしこの場所土俵際で踏ん張り10勝あげたことが、栃錦一代の土俵の評価を上げたといわれる。

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