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相撲部屋の後継争い

相撲界も現在は一門の垣根も低くなりフラットになっているが、かつては一門の括りが絶対的であった。相撲部屋は多数あったものの、一門別総当たり制のため実質一門単位で物事は動き、各部屋は一門の支所のようなもの。一門内でトラブルとなり別の一門に移った例もある。

出羽海・二所ノ関といった一門をまとめる総帥部屋となると権力は絶大。独立騒動や後継争いのたびに紛糾があった。

読売大相撲36年2月号は、前年に急死した出羽海(常の花)の後継をめぐるいきさつをまとめている。

ある跡目相続と題して。事の始まりは35年11月のこと。九州場所千秋楽の翌日出羽海相談役が急死した。千秋楽の祝宴には元気に出席、その後二日市温泉に静養に出かけた。その翌日、記事によると黒い血を吐いて帰らぬ人になった。死因は胃潰瘍。これも実際にはふぐ中毒という話もある。

元佐田の山の出羽海智敬自伝にも

師匠の元常ノ花の出羽海親方は、当時はもう相談役だったから、どこかに行ってふぐかなんかを食ってしたたか酔っていた。部屋で表彰式を待っていたら、そこへ師匠が来て、「おっ、お前、佐田の山。よかったな。来場所は幕内だな。しっかりやれよ」と声をかけてくれた。
(中略)そうしたら師匠はその明くる日に亡くなってしまったのだ。
おやじが死んだというので、我々部屋に居合わせた者だけで、とりあえず二日市の大丸別荘にとんで行って、師匠の遺体を寝台車で宿舎まで運んで来た。あのときは確か金乃花も一緒だった。本当にあっけない、はかないものだなと思った。特に前日、初めてといってもいいくらい、声をかけてもらっただけに……。師匠は定年の一年前、六十四歳ぐらいだったろうか

北の富士コラムにも

やがて傷も治り、元気になりましたが、その3年後の1960(昭和35)年九州場所後に急死。千秋楽の夜、大好物のふぐ鍋を食べ、豪快に酒を飲んで大いにご機嫌だったのですが、朝起きたら亡くなっていたのです。

ふぐを食べていたことは事実のようだ。石井代蔵の著書にも「肝をお代わりして食べた」という記述がある。

ともかく急死した出羽海。とはいえ64歳で間近に迫った定年制による退職も近かったのだ。後継者はほぼ決められていてもおかしくない。しかし通夜の席上ですでに紛糾があった。

年寄、力士が遺体を前にして故人の思い出を語り合ったが、自然後継者問題におよんでいった。死んだことを知った時から誰の頭からも離れないことだが、朝死んで夜では遠慮がある。みんな話題になるのをなんとなく避けていたのだが。ついに出てしまった。
出羽海会の幹事が思い切って口を切った。
「ここにはみんながいるのだから」しかし顔を見合わせるだけで黙っていた。うつむいたまま顔を上げない年寄もいた。重い沈黙が流れた。

「そんな話はいますべきじゃありませんよ。親方は死んだばかりなんです。」どなりだした年寄もいた。一瞬全体の視線がそこに集まった。しかし非難する者はいなかった。

重苦しい空気から逃げ出したいものばかりだったからである。なんとなくほっとした。

一部編集

怒鳴りだした年寄は、小兵だがきびきびした取り口で人気あった男としている。出羽海は当時独立は許可せずの規則があったため、部屋付き年寄の数が異様に多かった。それだけ人間模様もあるのだろう。

その後の巡業までに数日あったが、出羽海会の幹事たちは力士や年寄に会うたびに、だれが適当か聞いて回ったという。

それにもある親方は

だれをおすかききたいようだった。しかしあからさまにはいわないが、思っていることをこちらに押し付けようとするところが感じられた。われわれの大将はわれわれが決めるのであって、意見を押し付けられるのは好ましくない。なかには考え違いをして、後援会の人に働きかけて、後押しで自分の意中の人を後継にしようとしたものがいたようだ。話し合ってるうちにそう推察できた。親しい仲間に聞いてみたがその男もやはり同じように感じていた。

副題に後援会をめぐる暗躍とあるがすでに暗躍が始まっていた。とはいえ候補としてあがるのは数人であった。理事・取締として協会の金庫番ともいわれた武蔵川(出羽ノ花)、年寄現役通じて唯一の横綱であった九重(千代の山)に絞られた。

出羽海の相続争いはこの時に限らず大正からあった。そもそも出羽海が大名跡となったのは横綱常陸山の功績である。以来現在まで総帥としての地位を保ってはいるが、大正と昭和20年代に2度継承がされている。この際にもやはり穏やかとはいかずトラブルがあった。

一つ目。常陸山が大正11年に亡くなった時、栃木山と大錦という横綱がいた。この時大錦は跡目継承に意欲を見せ、事前運動もしたという話。しかしキップのよくない性格もあってか、仲間内の支持が広がらずに脱落した。そして栃木山は春日野(木村宗四郎)の養子であることから対象とならず、番頭格だった元両国の入間川に決まった。

大錦は後世では酒も女も好まず、相撲界の水に合わなかったとも評されているだけに、継承に向け動いたという話は意外である。あるいは後年の廃業劇は継承失敗からくるものもあったのだろうか。

両国はもとは大阪相撲の力士で、部屋内では常陸山と同年生まれ、人柄も悪くなく常陸山は客分のような扱いをしていたという。それだけに抵抗もさほどなかったようだ。常陸山が継承から8年ほどで亡くなったのもある意味よかったのだろう。

昭和24年になってその両国がなくなった際も後継はもめた。当時両国は75歳で後継が固まっていてもおかしくないのだが、横綱常ノ花の藤島に、笠置山の秀の山、両国の待乳山が名乗りを上げた。この時待乳山は一部力士を取り込んで「次の出羽海は俺だ」と最後まで言い張ったという。勝負検査役(審判)を長く務めたが、出羽一門の白星を強硬に主張するなどタカ派的な存在だったようだ。 また秀の山は後年執行部で活躍するが、当時は引退3年ほどの若輩年寄で夫人が常陸山の孫という点から有力であったようだ。横綱であった常ノ花は有力とはいえ、個人に対する反対もあったか揉めたようだ。しかし両国と近かったある人が遺志を伝えた。

出羽海という大部屋はよほどの人でないとおさまりがつかない。現役の時横綱でなかっただけにずいぶん劣等感も持ったし苦労した。出羽海を名乗るものは横綱がいい。

これが決め手となり常ノ花が継承となった。当時すでに理事長であったのも大きかったとも思える。しかし理事長職が多忙のためか部屋は継承後徐々に衰退していった。

武蔵川か九重かまでは収まったのだが。つづく。

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