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北の富士と行司

先場所久しぶりに大相撲中継に登場し、健在ぶりを示した北の富士。同郷の北口榛花の快挙にも喜んでいた。

北の富士は座談が面白い。著書もいくつかあるが、北の富士流というべき自由な文体で相撲界を厳しく、鋭く論評している。

雑誌相撲2007年5月号のふれんどりいとーく。この企画もいつごろか消えてしまった。もともとはVANVAN大相撲の企画であり、休刊後に「相撲」に移行したもの。

そのふれんどりいとーくは北の富士と定年を迎えた33代木村庄之助。長く木村朝之助の名で親しまれた行司である。この2人実は生年月日が全く一緒。昭和17年3月28日。北の富士は出羽海から九重に移り高砂一門。庄之助は入門より高砂部屋ということで何かと接する機会も多かったようだ。初土俵は32年1月の北の富士に対し、庄之助が30年5月。

どちらも最高峰を極めた2人。

行司として13歳で入門したが

庄 まるで子供ですもの。今振り返っても周りは偉い人ばかりですから、資格者になることすら考えつかなかったです。現実に序ノ口を6年間勤めました。
北 今のような定年制がなかったんだよね。
庄 その代わりそのあと3年で幕下に上がりました。

北の富士の陽気エピソードは若いころからで

庄 三段目ぐらいの時、左右に仲間のお相撲さんを従え、竹ぼうきを持たせ横綱土俵入りの稽古をしているのを見たことがあります。あとから思ったのはあのころから稽古してたんだもの、今の土俵入りがかっこよくて当然だなと。
北 そんなこともあったね。あのときはとても関取衆になれそうもないからせめてってやけっぱちでやったんだよ。希望に燃えてなんてそんな美しいものじゃない。

明治から下っ端ながら土俵入りの真似事や大銀杏を結って、関取からたたかれる怒鳴られるという話はしばしば。いつの時代もあることか。

北の富士が行司のことにも関心深いのには理由があって

北 ボクはねえ、ご存じのように序二段から十両に入るまでの4年間、行司さんの付け人をやったでしょう。当時行司の付け人に回されるのは見込みのない連中とされていたんだよね。周り見ても確かにそうだったしね。それはともかく定年制がなかったので、行司部屋に顔を出したときえらく爺さんの多いところだなあと思った覚えがあるよ。でもここでの経験は貴重だったなあ。ある程度の口上も言えたし、装束をつけることもやった。だから解説やっても行司さんのことは気になるんだよね。

庄 行司にとっても本当にありがたいことです。

北 あの頃の行司さん、みんな個性的だったねえ。酒が好きだったし、サムライも多かった。芸達者だし話も上手かった。ためになる話多かった。だから給仕をしていても楽しかったよ。

一方の庄之助は給仕が長く、その間正座でたえるのはつらかった、いい話をしてるとわかったのはずっとあとと懐古している。当時の行司はみな給仕のつらさを思い出している。まだ小中学生の年齢では当然だろう。修行は今よりはるかに過酷であった。

行司が定年制を施行されたのは昭和35年。この時対象になったのが木村庄之助、髭の伊之助など67歳から74歳までの5行司。いずれも明治30年代半ばの初土俵で60年ほどの行司人生であった。北の富士が付け人をしたのは当時三役格の式守鬼一郎だが、この制度によって一挙に式守伊之助に昇進。38年に木村庄之助となった。

サムライとも評しているが北の富士の「師匠」鬼一郎は豪傑で知られた。酒や色事に関する逸話は多く、北の富士にも影響が多くあるはず。定年後のラジオでのインタビューを聞いても、落語家のように流暢に行司の極意を語っている。まさに芸人。

行司の付け人は出世した力士もいるためか、その後有望力士でも行司付きとなることがあり、双羽黒は27代庄之助の付け人、白鵬も40代伊之助の付け人を短期間ながら務めたことがある。

鬼一郎の話になり

「早く俺の軍配を受けるようになれ」というのが口癖だったが最終的に間に合わなかった。定年の時に電話をかけてきて「オレの勝ち名乗りを上げることができなかったのが唯一の心残りだが頑張れよ」って。若手行司には芸談などいっぱいしてくれたんだろうな。

北の富士が上位で相撲を取るようになったのが昭和39年後半から。大鵬柏戸にはずっと勝利できず佐田の山は同門、衰退期の栃ノ海にも勝てなかった。41年初に柏戸、春に大鵬、夏に柏戸に勝利しているが、取組順を見ると結びではなかったようだ。巡り合わせとはいえ残念な話。

庄之助は印象深いのは「負けを見て勝ちに挙げろ」ということ。先入観を持つと無意識のうちに思い込んだ方に挙げてしまうことを避けろということのようだ。

つづく。



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