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談志一代記を読む~ウケるウケないとは~

二つ目になって小よしから小ゑんとなった。二つ目になっても前座が少なく相も変わらず前座仕事もこなしたという。当時落語協会は総勢50人もいたか。落語界の事情がよく分かる。ただ稽古はよくいっていたようだ。

小さん師匠のアドバイスは「ウケる落語家に習いに行ってもしょうがないよ」
わかりやすく言えば三平さんとこ行ったってしょうがない。だから小圓朝師匠にはよく教わりましたね。聞いてて面白いとはまず思わないけど「三人称の巧さ」みたいなものはありましたからね。

三遊亭小圓朝(1892-1973)。2代目小圓朝の息子として生まれ15歳で入門。芸歴が長く地味ながらも忠実な高座だったという。血統の良さもあり、橘家円喬の襲名も計画する程だったが、地味さが災いして大看板となることはできず、中堅真打の扱いで終わった。学生落研の稽古台を長く務め、教え子は今も数多くいるようだ。

音源はそれなりに残るがやはりあっさりという印象。見た目からするともっと老大家の雰囲気もあるが、受けや衒いもなかったという。小ネタも多い。

6席ぐらい習ったかなあ。近所散歩してて小圓朝師匠の家の方に行ったら岸田今日子さんにバッタリ会って「知ってるわよ、あなた方が稽古してたの」って言われました。

上方の森乃福郎の話で、誰かに稽古に行った。
「覚えたか」「覚えました」「これを面白うやればネタになる」
そういう大阪のエピソードがありましたが、「しの字嫌いなんて面白くやりようがなかった。「三人旅」も小圓朝師匠を崇拝してた朝の助でさえ「あれは下手だね」って言ったもんな。

小圓朝師匠人気もありませんでした。面白くなくても、人気なくても、巧くなくてもね、噺家の世界って突っ張ってたら「保つ」ところがあるんです。でもそういう面もありませんでしたな。彦六の正蔵なんてそれで保った部分がありましたからね。


確実に演じ分けができる三人称の巧さ。しかしそれ以上のプラスアルファがなかったのだろう。無欲だったのかどうか。落語界は受ける人材だけではなくとも、巧い人、ヘタウマ、聞かせる人といった役割がある。その点漫才他のお笑いより幅広い。ウケるに徹する必要はないのだ。小圓朝はどれにあたるのか…

小圓朝の芸は弟子の円橘をはじめとする円楽一門に受け継がれている。そのうち小圓朝の弟子の円之助の息子が、円橘門下で4代目円之助から4代目小圓朝となり期待されたが、酒で体を壊し早世した。幼少時には、弟子たちが病床の小圓朝の世話をしており自身も面識があったという。惜しいものだ。



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