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朝潮を悼む

場所前にニュースが。元大関朝潮が亡くなった。67歳で小腸がん。

現役時代は大ちゃんの愛称で大人気だった。当時を知らないが新入幕時の期待は凄まじくすぐに横綱並みの後援会もできたという。北の湖に滅法強く13勝7敗という横綱と大関(対戦の大半は大関以下の時代)では異例の対戦成績を残す。優勝は1度あるが大関昇進までに3度の決定戦を経験。全盛期は大関昇進までだったのではないか。陽気な性格含め千代の富士時代の土俵を彩った名大関であることは間違いない。


親方としては初めから高砂を継承したイメージもあるがそうではなく元房錦の若松部屋を継承する形で独立した。10年程で満を持してか高砂を継承することとなった。高砂一門の総帥として協会内でも理事を務め、かつての天敵だった北の湖の右腕となり出世コースに乗っていたようにも見えたが弟子だった朝青龍の不始末で歯車が狂ったように見える。朝青龍はある意味偉大なる傑物であったが、コントロールするには高砂の性格含め不足過ぎた。その相撲界らしからぬ陽気で大らかな性格はプラスではあったろうが朝青龍問題にあたってはマイナスだったのは否定できない。一時は理事から主任まで落とされ、その言動も併せて繰り返し笑いの種となっていたのは好人物であるだけ辛いものもあった。呵々大笑とばかりに対処していたが陰ではいろいろ苦労もあったのだろう。

朝青龍引退後は自らならず部屋もしばらく衰退し高砂の面前で朝青龍の話題を持ち出すのはタブーだったらしい。記事には一度朝青龍の事を尋ねたが「稽古は一番やっていた。自分でやらなきゃいけないことが、よく分かっていた」と認めていたという。何かと反目していた師弟だがこれで十分ではないか。自業自得とも一刀両断したが誰が師匠であっても舵取りは難しいのは想像できる。

衰退は続き2017年には朝赤龍の幕下陥落で関取不在となった。不祥事の影響は色濃くこのまま定年かという時に朝乃山が出てきた。定年の際タケノコのように伸びてきたと回顧している。タケノコという表現のように指導方針は放任が多かったようだ。ただ稽古場ではスポーツ紙を読んでいたようだが「立ち合いの時、師匠を見るとよく目が合う」「ちゃんと見てくれている」と力士は言っていたらしい。

自身は親方からの鉄拳制裁が多く「俺は親方に殴られて強くなった」と振り返っていた。大鵬もそうだったようだが大関になってからも叩かれてたというから辛いだろう。「今の時代は稽古はどうしてするのか、理解させることが大事」と説く姿勢もあった。部屋の独立初期には若い力士の考えがつかめず流行の音楽を聴くなどして距離を縮めようとしたこともあった。豪快と繊細さが同居していたのだろう。入門時の朝青龍に「こいつを見とけ。強くなるぞ」と評するなど素質を見抜く目は確かだったようだ。放任の姿勢は苦労の末に辿り着いたといえる。

朝乃山が大関昇進で有終の美で定年を迎えた。再雇用となってすぐにまたまた不祥事が起こしてしまった。新型コロナウイルスのガイドラインを守らず外出を繰り返したとして朝乃山ともども処分を受ける。「指導者としての資質が欠けている。無自覚な振る舞いが弟子らの意識を麻痺させ朝乃山の不行状を生んだ」と断罪を受けるなどある意味性格含め一刀両断されてしまった。豪放磊落な性格が功罪両面あったことは否定できない。

晩節を汚してしまった恰好。ある意味らしい最後といえばそうではあったが日刊スポーツの評論も降板するなど寂しい幕切れとなった。

その後1年前に小腸がんを発症。懸命なリハビリ生活を送っていたという。小腸がん自体かなり稀な病気でこれまで聞き覚えもない。今年に入ってからは病床に伏し厳しい状態が続いたようだ。殆どの関係者に伏せられていたようだが何を思っていたか。

千代の富士が亡くなった際の思い出も印象深い。亡くなる1ヶ月前に
「痩せたねえ」と声をかけたとか。それに対し「ダイエット中なんだよ」と強がったらしい。どちらも性格が凝縮されたエピソードではないか。千代の富士他界後7年で同い年の朝潮も追ってしまったが67歳は元力士といえ早すぎる。 合掌。



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