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木村庄之助の権威を見る

今年昇格した木村庄之助は残り3場所で定年だが、その後の立行司昇進の動向が見えない。順当には木村容堂だが玉治郎の退職など、何かと行司界も穏やかではないように思える。スンナリいくのだろうか。

読売大相撲47年5月号は「その後の4庄之助」と題し、存命の木村庄之助にインタビューしている。当時22代が82歳、23代74歳、24代70歳、25代が62歳。この直前には行司のストライキ騒動もあり、その後の47年初の北の富士貴ノ花戦を巡って判定が紛糾。出場停止処分を受けた木村庄之助が廃業した。これまで黒子に近かった行司が注目された時でもあったようだ。それぞれに放談と言うほど語っているが協会に批判的な読売誌だからこその内容でもある。

トップバッターは25代の山田金吾氏。造反劇への辞表と題して

「私は首になったんじゃない。こっちで見限って辞表を出したんだからね。ほれ、この通り世間が味方してくれるんですよ。」
山になった励ましの手紙を前に山田氏の意気ははなはだ盛んである。
「初場所謹慎処分になって生まれて初めてテレビで見た時は、なんとも言えずほっとした気持ちだったね。あの時だって完全に辞める気だったんです。しかし花籠さん除く一門親方衆が辞めるなというし、行司の中であたしをたよってくれるものが絶対やめないでという。それに今は言えない事情もあってひくのが遅れた。本当はもっと早く辞めたかったのだが… 」

造反劇で全員辞表提出の時点でもはや協会とは決裂だったのだろう。仮に例の貴ノ花の相撲がなくともどこかで身を引いたはず。

そもそもの発端は46年7月頃で

伊勢ノ海監事が行司6人のクビを切れと私に行ってきたが、できないと断ると、やらなければあんたに問題が降りかかるよといわれた。

この6人というのはなんとなく想像はつく。22代・24代は実名で下手と挙げているが筆之助・勘太夫は確定だろう。ある意味個性派で現在には得難い存在だが、いろいろと失態もあり睨まれた存在だったのは理解できる。

結局理事会で一方的な決定を受け行司改革が決まった。信賞必罰による抜擢制、取組数の適正化が主なところ。

しかし中でも不満だったのが資格審査。審判20名に年寄10名が審査員となり優~不可まで判定するという。行司がこの中にいない。気に入らない行司をやめさせる手段になると猛反対したそうだ。

更に番数も

庄之助2番もだが、1日に5人6人と休ませてふやすことはない。いやがらせですよ。庄之助は我々のシンボルだ。結びを命がけで裁くようになるのが夢だといいましたよ。
余ったものに事務をやらせるというが行司は事務員ではない。誰でも土俵に上がりたいんだ。

理事会は最高決議機関だけに従うか辞めるかの2択しかなく、全員の辞表に至ったという。結局これには協会も慌て、改革案も撤回し給料・養老金もアップとなった。

行司会にも助成金が出るようになった。助成金なしでは、我々の少ない給料から出し合うだけおいそれとは開けない。私の月給も最後は上がって15万円になったが、それまでは11万7千円弱だった。庄之助にしてこれだからまともな生活はできませんよ。もっとも二所ノ関系だから安かったんですがね。出羽なら違ったはずです。

今でこそ主流ともいえる二所ノ関系だが、当時は出羽海全盛の時代。こういった待遇にも影響したのだろうか。しかししこりは残り差し違えからの廃業に。

謹慎処分を食らうほどの差し違いじゃない。あれが謹慎なら微妙でも一つ刺し違えたら引退勧告だ。権威に傷をつけたくない。そう思って辞表を出したんです。

審判もいい加減さから協会の権威にもおよび

長い間玉錦関の番頭をやってましたが、玉錦は取締を呼びつけましたよ。むかしの横綱は権威がありました。東富士さんまでですね。理事を自宅へ呼びつけていたし、会長の時にストライキ、審判を力士会で選んだりした。
それがどうです力士会の弱さは。第一線のものの給料が安くて、辞めたものが高い社会などどこがありますか。親方万能時代ですな。年寄の言う事なら間違っても通ってしまう。

東富士が引退後すぐに、諸々の事情より協会を追われた。現役時より待遇改善を訴えるなど何かと幹部にとってうるさかったようだがそのためなのか。ちなみに当時の理事長出羽海(常ノ花)とは取っ組み合いの喧嘩にも発展したことあるとか。

他にも

いまの庄之助伊之助に顔ぶれをやらせても、まずくて聞いてられないからやらないといったそうで、新聞に出てたが、確かに巧くない。しかし自分の所の商品価値を落とす発言をする経営者がほかにいますかね。
庄之助が空き家になってるが看板外して商売してるようでおかしいです。

9年も空位だった現状。もはや権威などないようなものか。現庄之助も顔ぶれ言上の失敗は多い。

しかし最後に双葉山の時津風との思い出話があり

私が庄之助になった時、勘太夫が伊之助になっただけであとは昇進しなかった。そこで当時の時津風さんに物言いをつけた。「自分が庄之助になれて何を言うことあるんだ」といったが、先代庄之助が辞めたのだから、下の方を全然昇進させないのはおかしい、上げてくれないなら庄之助を辞退しますといった。時津風さんはよく分かった人で、ニコニコしながら仕方ないなといって、それぞれ上げてくれました。

双葉山は酸いも甘いも嚙み分けていたのだろうか。

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