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大相撲の今後~公傷制度の行方~



■ 大の里のこと

名古屋場所が終わりもう少し力士評をしたかったが、急遽別のことを書くことに。

大の里は最後にまた脆く敗れた。もはや引き技も得意の一つになっている。

大卒力士は時間がなくあっというまにピークが過ぎる。朝乃山も初優勝時に大きな期待があったが自業自得の不始末から大きく番付を落とし、復帰してもけがを重ね、今場所膝をとうとう壊しまたもや降下。どうもその間にどれほど稽古を重ねたのかも怪しいという話も。 25から30の5年は大きい。

石川県の先輩でもある輪島は、大卒力士が山のように増えた現在でも唯一の大卒横綱。幕下連続優勝で十両昇進したが、十両2場所目(初土俵より4場所)で負け越し、十両4場所で入幕も入幕2場所目で負け越すなど意外と壁に当たっている。46名古屋が初の上位戦だがここでも6勝。玉の海と唯一の対戦をしている。

しかし47初に新小結から負け越しなく、同年九州に大関、大関4場所で横綱。いわば天才児輪島でも幕内の厳しさは味わっている。大の里は取組レベルでは惨敗もあるが、場所としてはまだ負け越しもない。学生相撲が横綱として実績を残すには25~6歳の昇進でなければ厳しい。 大の里に期待が大きいがそれほど時間はない。



■ 公傷制度

公傷制度について横審が言及した。けがに苦しみ2人が大関陥落、尊富士や朝乃山と大けがで番付を落とす力士が相次いでいることによるようだ。

公傷制度自体は2002年名古屋にのべ16人が休場、2001年ごろより大関の適用が多いなどから問題視され、武双山が2度にわたって申請ながら却下され、出場し勝ち越したことより廃止論が大きくなった。当時の北の湖理事長は原点に返るとしている。横綱ながら7年休場なしで土俵の中心にあり続けた北の湖の意見だけに重かったようで、急速に廃止へ向け動き、2004年初より廃止となった。この時北の湖理事長は大関の降下規定についても、現行の「2場所連続負け越し陥落、10勝で再昇進」から「3場所連続負け越しで陥落、翌場所11勝で無条件昇進」に変更を提示したが反対が大きく見送られた。


武蔵丸がコラムで言及したように、仮病(ずる休み)による休場が明らかに多くなったのも廃止の一つのようだ。初めの認定は非常に厳格で、大関は対象外ということもあり、1972年の創設から10年間に認定された幕内力士はわずか7人(順に丸山・岩下・栃赤城・琴風・栃赤城・闘竜・魁輝)。

7人の負傷内容をみると

丸山 右膝内障及び関節血腫
岩下 左膝関節内障・頚部捻挫・脳震盪
栃赤城 左足首関節捻挫・左踵靱帯損傷
琴風 左膝内側側副靱帯断裂・左膝半月板損傷・左腰部挫傷
栃赤城 右足首関節捻挫
闘竜 左足首関節挫傷
魁輝 左膝靱帯損傷

琴風の場合1度目の靭帯断裂は適用されていない。1979春に右肩関節脱臼をした千代の富士は手続きの不備(現認報告書の提出遅れ?)から公傷認定を受けられず翌場所3日目より出場。9勝と勝ち越した。また1983年初の騏乃嵐など稽古中の負傷により、単なる休場となっている力士もある。

雑誌相撲の2003年11月号によると3年目(1974年)、7年目(1978年)、8年目(1979年)は幕内十両でゼロであった。今回調査しても、非常に少なく稀なものだったとわかる。

しかし1983年に大関にも適用されるようになり、このあたりから認定が緩和された。特に1993年から2002年までの認定は幕内53人、十両47人ののべ100人である。

このころになると単なる全休力士はレアとなり、毎場所のように公傷力士がいる。1年間で2度公傷認定を受ける例もあり、負傷の程度こそあれ濫用といわれてやむを得ない状況。特に2000年になって以降急増し、公傷休場力士のいない場所はほぼなく、毎場所複数人の公傷力士がみられる。1998秋は公傷力士が4人、2000夏は全休・公傷力士が8人、2002名は公傷だけで7人という公傷バーゲン状態。

北の湖理事長は「場所後の巡業に参加し、場所前も稽古しながら、本番は休場する。1年に2度も公傷で休場した大関もいます。プロにとってけがは恥ですよ」と現状を批判していた。

またこの急増について「スポーツ医学の進歩がある。以前は捻挫とされた怪我も、検査器具の開発で小さな骨折を発見できる。受け取り方が全然違う。」としていたが、それ以外にも原因があり、1992年九州の霧島の負傷をめぐって(当初歩行可能ということで却下したが、のちに靭帯断裂と判明)、診断書の提出期間が3日に拡大した。これにより審判部の公傷委員の判定よりも診断書を重視することになり、公認の有給休養のように利用するようになってしまった。こうなると休まなければ損だという精神で先を争って申請するようになったと、雑誌相撲の記事では振り返っている。

当時の公傷認定力士を見ても、全治2か月という診断が目立ち、比較的軽度の肉離れ、捻挫といったものでも認定されている。つまり診断書次第でどうにでもなる制度に変化してしまった。

公傷について横綱審議委員会の山内昌之委員長は

「どんな制度をつくっても、素直に適応して受け入れる場合もあるし、制度に頼って急場をくぐり抜けたいという気持ちが働くも人間だ。したがってデータや材料を集めて問題解決の準備にあたってもいい時がきてもいいのではないか」

「相撲界の貢献や将来の角界の発展などに十分に働いてもらうためにも公傷制度を検討するべき」

としている。

数年前にも公傷制度の復活を求め力士界の要望が出されたことがあった。しかしコロナ対応などに時間を割かれ、有耶無耶に終わっている。

八角理事長は「けがで番付を落として、這いあがってくるのも修行の一つ」であるとし、復活に否定的なようだ。確かに怪我はすべて不可抗力とし、特別な処遇をしては、体重増加、押し相撲全盛の現代に収まりがつかない。取り口を変える、下半身の強化といった個々の力士のけがに対する向き合い方も重要である。

朝乃山の靭帯断裂。かつてであれば公傷認定の大けがだ


ただし大けがによる長期休場で番付を落とす例も相次ぐのは事実。

公傷制度復活といっても、いわゆる慢性的な怪我や仮病といわれがちなものと、靭帯断裂・骨折といった明らかな重傷に対する判定の区別をどう規則に落とし込んでいくかが最重要であろう。「データや材料を集めて」という提言もあるが、負傷部位ごとにどれほど回復期間がかかるかといった客観的なデータで判断すべきではないか。

負傷の内容以外にも、1年に1度、2年で1度といった回数の制限、公傷休場中は給与が半額に削減といった何らかのペナルティは必要である。ただ休めるなら休みたい、でも給与ももらえるでは誰でも利用したいというのが本音だ。特に近年は巡業スケジュールも過密で、どう見ても疲れの目立つ力士が多い。相撲界は番付のみに縛られ、この種のペナルティや処分が甘い。

単なる全治2か月=公傷、制度を利用し急場を凌ぐということになっては元の木阿弥。そんなところに単なる診断書で認定できる公傷制度が復活しては大相撲にとってマイナスとなるだけだ。





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