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北の富士座談~千代の山と前田山~


千代の山


北の富士庄之助対談。そもそも入門時、北の富士は出羽海、庄之助は高砂と一門が違う。一門が違えば会話も少なく付き合いもないとされた時代。この隔たりは大きい。しかし昭和42年の九重部屋独立騒動で千代の山が独立。一門も破門となり宙に浮いたが、前田山の高砂が助け舟を出し一門入りした。前田山もアウトサイダーといわれるほどの反骨精神の強さ。いわば互いに角界の孤児だからこその高砂入りだったのだろう。

北 そんな付き合いもウチの師匠が高砂一門になったから始まったんだよね。
庄 あの千代の山の親方って本当にやさしい人でしたよね。
北 こんな世界なのに、あの人が人を叩いたのを一度も見たことがない。うちの稽古場にも竹刀はあったけど、景気づけのために廻しの上を叩くぐらいのことしかしなかった。優しすぎたといってもいいぐらいだね。
庄 ユーモアもあってよく腰にタオルを巻いて、電話口で「裸で失礼します」なんてことも言っていた。一度こんなことがありました。部屋に用事でお邪魔したとき、達筆で有名だった親方に、挨拶状のあて名書きを20~30枚頼まれたことがあった。こっちは緊張して必死で書きました。そしたら親方、1枚取り上げて「俺よりずっとうまいじゃないか」といってくれたんです。

千代の山の能筆ぶりは角界でも指折り。千代の山といえば横綱在位時の横綱返上騒ぎ。26年に横綱昇進したものの、昇進後は優勝できず、特に昭和28年は4勝4敗7休、1勝5敗9休、全休と不振で、土俵入りでもヤジが飛ぶほど。当時千代の山の髷を担当していた床山も、髪質が落ちフケも目立っていたと回顧している。真面目でここまで順調な昇進なだけにか悩んだ。しかし当時26歳。まだ引退は早い。そこで「大関の地位からやり直させてほしい」と横綱を返上することを考えた。

部屋の藤島(元横綱安芸ノ海)を通し申し入れたが、それも巻紙に得意の毛筆でスラスラと横綱を返上したい、大関に戻って現役を続けたいという意思を記したという。「返上願いたく候」といったところか。

前代未聞の出来事に世論も沸いたが、横綱大関の中で最年少でもあることから、協会は申し出は却下し再起するように促した。若い横綱の率直な思いに対し、温かい目が向けられ、以後の再起につながったという。

前田山


前田山と千代の山は何かとつながりがあり、千代の山は昭和24・10,25春と連覇を果たしながら横綱を見送られた。これは直前に前田山が野球観戦に始まる一連の騒動から強制引退となったことで横綱陣への目が厳しくなった影響である。大関で連覇を果たしながら横綱昇進しない例はこれを最後にない。いわば千代の山の最初の挫折だったといえる。

前田山の話に移り

庄 入門したての頃なんですけども、前田山の高砂親方がほめたりしかったりしてるんですけど、なんか変なんですよ。取組に勝った人を怒ったり、負けた人をほめたりしてる。なんでと子供の僕にはどういうことなんだか、まるで理解できませんでした。今となっては逃げて勝ったり、姑息な相撲を取った時はしかりつけ、負けても堂々のいい相撲の時は褒めていたんですね。
北 当時の高砂は押し相撲の力士が多かったからそんな風に持って行ったんだろうなあ。前田山サンは怖かったけども、そういったところもあって人を引っ張る力を持っていたよね。ユーモアもあった。

昭和30秋の幕内を見ると、朝潮、宮錦、嶋錦、国登、十両に大戸崎、森ノ里といったところ。押しが多い。前田山は当時の角界からみると異端といわれるが、現代から見ると先を行っていた点もある。洋式トイレや洋食など海外通であるのもあったか。

海外つながりでそれ以上に面白い話があり

北 ジェシーが相撲に入るきっかけになったハワイ巡業のこと、よく覚えてるよ。向こうの人たちに稽古をつける時間になったらそこにジェシーがいた。入門の話はだいぶ進んでるらしくて、親方が柏戸さんや大鵬さんに「わかってるね、わかってるね」と甲高い声をかけている。

得たりやおうと、あの柏戸や大鵬がまた上手に負けてやるんだ。ジェシーはもうご機嫌さ。それを見ていたのがこの前亡くなった若浪さんだ。「気に食わねえな」とあのブッ太い声で一言いうと、のっそり立ち上がって土俵に出て行って、いとも簡単にポイと投げ飛ばしてしまった。自分よりずっとちっしゃなお相撲さんにやられたジェシーは今度はパニックさ。「もう相撲を取るのは嫌だ」とまで駄々をこねだしちゃった。

目に浮かぶ。入門のために横綱大関があえて負けておだてる作戦はよく聞くが高見山は当時19歳。こんな手が通じたのか。それをみて俺が倒してやろうと土俵に上がる若浪もサムライだ。若浪も酒は底なし、宵越しの金は持たないという豪快な力士で誰でも吊り上げてしまう豪放な相撲。入門前の高見山など赤子だろう。ただ幕内の成績では高見山の5勝3敗だった。もう嫌だと駄々をこねてどう収めたのか…


1966年のハワイ巡業

駄々こねといえば、相撲界の身長体重は長く自己申告だったものの、高見山の体重がずっと165キロというのはおかしいとクレームが付き、力士会で一斉に測定となった。ところが当の高見山は体重計測を嫌がって逃げ回り、大捕り物の末、親方数人で取り押さえて体重計に乗せたという。しかし飛び上がって逃げたものの、針は一瞬180キロを指したということでとりあえず落着したようだ。なんとも茶目っ気はあるが…




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