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負け越した横綱

新大関霧島が再出場も6勝止まりで負け越した。大関の負け越しは以前は休場に逃げるためか少なかったが近年負け越し大バーゲン。この2年でも6例ある。個人的には星のバラマキ、内容低下を避けるためにも地位に保証のある大関は休場に逃げるべきではないかと愚考する。

ところが横綱の負け越しとなるとグッと減る。昭和以後でみると昭和5.3の宮城山に始まり6例である。10~13日制の時代がほとんどで戦後は大乃国と若乃花3の2人だけ。7勝7敗から千秋楽に8勝目は宮城山、武蔵山、前田山、吉葉山、栃ノ海(2回)の6例がある。ちなみに大正では大正8夏の鳳が3勝6敗1休の負け越しがある。

大乃国の負け越しは戦後すぐの安藝ノ海以来44年ぶりであり一大事であったようだ。雑誌相撲平成元・11号には「44年ぶりに出た横綱の皆勤負け越し」と題して特集が組まれている。

この中で筆頭の宮城山についても長く記事を割いているが、「気の毒な面もあった宮城山」と題し当時の角界事情と合わせて紹介している。

一部引用すると

皆勤負け越し2回の宮城山は、そのほかにも不戦敗を含む4勝7敗があり、勝ち越し1点の場所が2場所あるなど弱い横綱の印象を与えがちだ。
確かに成績はそんなに良くないが、東西合併最初の場所の昭和2春に連戦連勝して協会を慌てさせ、早くつぶそうと関脇常陸岩を4日目、大関大ノ里を7日目、横綱常の花を8日目に当てるなど、東京力士を顔色なからしめた。その場所10勝1敗で優勝し、昭和3・10にも優勝しており、弱いと決めつけるほどではない。
惜しまれるのは東京に来た時は既に全盛期を過ぎていたことである。

宮城山は大阪相撲の横綱だが岩手県の出身である。東京相撲の出羽海に入門したが三段目で大阪に行き大正5年入幕した。大阪相撲から東京に移籍のパターンが多い幕内力士では珍しい。岩手出身にかかわらず宮城山なのは出身地が伊達藩領内だったとのことだが、これに対し一部反感もあったらしい。3場所目に大関で当時の横綱大錦と並び大阪の看板ではあった。大正11夏に横綱。このあたりまでが全盛で昭和2年の合併時はもうじき32歳。あまり注目されないが大阪時代も横綱昇進後は休場が多く、大11夏~15春までの8場所で全休3場所を含む23勝4敗4分50休と既に苦闘していた。出羽海勢に対抗するには分が悪く、押し相撲に弱かったため(大阪相撲は押しの力士が少なかった)苦手が多かった。常ノ花に2勝8敗、常陸岩4勝8敗、玉錦6勝6敗、山錦6勝8敗、若葉山5勝6敗、武蔵山0勝4敗、玉碇3勝4敗という成績が表す。

ちなみに「日本相撲史」には東西連盟大相撲の星取も掲載されているが第1回前半は3勝5敗、後半は途中休場ありの2勝2敗、第2回は6勝2敗3休とよくて三役~平幕上位レベルだろう。ところが昭和2春に優勝。確かに割りを崩して前半に上位力士と当てるなど協会が予想外の事態に慌てたのは伺える。次の3月場所も全勝を狙う常ノ花に千秋楽黒星をつけるなど面目を保った。これだけでも十分だったのではないか。

この横綱は多趣味な遊び人でも知られ呼出太郎の話には

バクチ好きだったそうですね。
大好きだった。金がなくなると若いもんを呼んで「おいこれを持って行ってこい」と化粧まわしを質に入れちゃう。それで負けてその金もとられちゃう。土俵入りになっても廻しがない。休まれちゃ済まないから木戸の上がり銭をかき集めて質屋から出して土俵入りをやるなんて具合だった。大阪で宮城山の2,3軒先に住んでいたことあったが、電気の集金人が俺の所へ来て、「太郎さん、いついったってカギがかかって電気代をくれない。あんた同じ協会だから代わりに払ってください」「ばかいうな。向こうは横綱、こっちは呼出だ。横綱の電気代をなんで呼出が払うんだ。」そんなこと何度かあったね。おもしろいもんで相撲甚句なんか歌わしたら堂々たるものだった。

読売大相撲36年5月号

床山の話でも

床末 今の関取は質屋なんか知らないでしょう。宮城山関についてる頃なんかーあの人遊び好きだから。
床助 あんな遊び好きな人いなかったね。
床末 年俸が何もかもで六千円でしょう。食糧、給金で。それであの人らは足りないんだ。その点出羽さんなんか年俸1万円以上使ってシャンシャンしてる。同じ横綱でも随分違った。
床助 組合によってずいぶん違う。あの頃出羽海が全盛で配当が違うんだ。
床末 玉関と巡業一緒でしょう。一方玉関は派手でしょう。片方は後援者があるわけじゃなく自分の収入でやるから派手なことはなかった。できないんですよ。

朝日新聞社大相撲画報一月場所展望号、昭和36年1月発行「床山さん放談会」

昭和5年ごろの物価は銀行の初任給が70円、小学校教員が45~55円、牛乳1瓶6銭だった。1円に4000円の価値があるとのこと。4000~4500倍ぐらいとすると宮城山は2400万、常ノ花は4000万ぐらいか。それほどでもない。


土俵より遊芸に熱中していたのもあるか。後の前田山もビリヤードやダンスなど趣味人だが土俵の方はそれほどではなかった(横綱唯一の勝率5割以下)。あたら横綱にならず合併になっていれば名物力士で良かったのではないかとも思える。
確かに晩年は不成績で評価を落とした。しかし引退できないのには協会の事情も大きかったのである。昭和初期の不景気時代で客入りも悪く、看板の横綱がいなくては入りに大いに響く。休場したい場所でも許されなかったともいう。巡業は特にそうで横綱土俵入りがあるかどうかで入りが半分以下というから横綱の意味は大きかった。

最後の1年の成績を見ると

昭和5春 6勝5敗
昭和5・3 4勝7敗
昭和5夏 6勝5敗
昭和5・10 1勝6敗4休
昭和6春 5勝6敗
昭和6・3 全休 引退

ギリギリの成績が続いている。最後となる昭和6春も初日から4連敗で土俵入りでも笑い声が飛び交う状況。悲壮というより悲惨であったがこの場所常ノ花が引退して1人横綱となったのでもうじき36歳という状況で土俵に上がった。常ノ花が昭和5・3に優勝しながら2場所後に引退したのは特に大きい。このように当時の事情よりやむを得ず現役を務めたのである。後に連敗記録に並んだ稀勢の里もある意味引退を延ばされた面もある。実際宮城山の引退で横綱空位となり、昭和7年10月後の玉錦まで約2年横綱が不在だった。

負け越し第一号の横綱にも様々な裏面があったのである。

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