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番付の疑問・休刊などなど

改めて大相撲の番付。小結に前頭4の正代が「昇進」したが、小結を争ったのは前頭2の王鵬であった。4枚目の10勝と2枚目の9勝を比較して正代に軍配。しかし内容を見ると王鵬は不甲斐なかった2大関を破り、関脇の阿炎と貴景勝、小結大栄翔にも勝利。正代は2大関にいずれも敗れ、阿炎と平戸海からの白星のみ。内容だけ見れば王鵬が絶対有利。正代王鵬も王鵬が勝利している。これだけみると納得も行かない。
審判長が安芸乃島の高田川。王鵬の親の貴闘力の兄弟子。こんなところも昇進に影響したか…

さらに大相撲ジャーナルの休刊。今月号をもってとのこと。2013年に創刊され、編集長は大相撲アナだった緒方喜治氏と、初めはNHKの大相撲中継の後継の位置づけだった。しかし発行元が変更、NHKが新雑誌を発売したため報知新聞の提携に移行、提携解消。編集長の読売大相撲の編集長経験者に移り、発行も隔月から月刊、さらに隔月と流浪の雑誌であった。

連載には読売大相撲らしいものもあったが、肝心の本場所関係の記事に中身が薄かった。ベースボール社の相撲、大相撲中継にもいえるが、後世に残るような資料でなければ価値は低い。若貴ブーム時にも一山狙ってか読み捨てのような雑誌が大量に発行され、一時は古本屋にも相当みられた。残る2誌も中身の貧弱さが目立つ。しかし値段は上がった。この先どうなるか。

大相撲の休場について。先場所分の雑誌星取表から幕下以下の星取表の「や」が「ー」に変わったようだ。ある意味大きなこと。作成の都合だろうか。むやみに変えるべきではないと思うが。

巡業も休場が多かっただけに納めの場所も大量休場が予想される。ひとくちに休場といっても明治大正期までは少し意味が違った。

例として20世紀初の横綱、梅ヶ谷の土俵歴から

明治33夏 6勝1敗1分2休
明治37夏 6勝1敗1分2休
明治39夏 7勝1分2休

両国国技館開館の明治42年までは幕内力士は千秋楽には出場しない習慣であった。そのため皆勤でもかならず休が1つある。

そのほかの休場をみると、明治33夏の1休は大見崎の休場によるもの、37夏は両国の休場、39夏は梅ヶ谷自らが右手を突指したことによる休みである。このように相手の休みでも不戦勝とならず自分にも休がつく。休だけでは事情は分からない。

無敵といわれた太刀山は

明治38夏 5勝2敗1分2休
明治40春 5勝1敗1分3休
明治42春 6勝1敗1分2休
大正3夏 8勝1預1休

明治38夏は朝汐、40春は碇潟と稲瀬川、42春は常陸山、大正3夏は小常陸のそれぞれ休場によるもの。特に大正3夏は連勝中のことだった。上の4人はいずれも以降休場を続けているので怪我だったのだろう。

勝手に負傷休場と判断してしまう資料もあるが、不可抗力の休も多くあったことになる。「や」だけでは自分の休場か相手の休場によるか明確ではない。双方とも1日休みで出場の場合もあり、このあたりは怪我なのか何か意図があるのか、新聞などを参照しなければ不明である。場合によっては相手の星を落とすため自軍の力士をわざと休場させることもあった。明治大正期の連勝記録で分け預かり休みを数えないのもこのためである。

不戦勝制度が当然となった現代には逆に奇異にも見えるが、当時はこれが普通であった。優勝制度が明確にない時代だからこそともいえる。



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